【弓道教歌】射と弓具の関連(4)
射と弓具の関係の4回目になります。
この話題も長いですね、、、
前回のはこちらです
1142 本多
(歌意)
この歌に云う強弱とは、強い弓や弱い弓という意味と解すべきであろう。
強い弓や弱い弓があるのは当然であるが、自分の体力や技倆に相応する強さの弓でなければ使いこなすことができない、との意。
(感想)
弓が強いと遊ばれる技量を発揮できないのは理解できます。ちょっとだけ強い弓を引くのにも技術はいると思うんですよね。必要なところに力をいれつつも、無駄なところには入れない。ちょっと課題ではあります。
”使いこなす”というのは解釈が分かれる部分だと思います。
弱い弓は使いこなすことはできないのか?ということに関しては、Noだと思います。ここで言いたいのは、弱い弓を引く技術を体得してるならば、使いこなす、ということかなと。強い弓は体力+技術で、弱い弓は技術で、くらいの表面的な解釈をしておきましょうか。
1143 本多
(歌意)
張顔とは、弓に弦を張ったときの貌(かたち)のことであるが、その張顔に過去の張顔、現在の張顔、未来の張顔と云う3ツの区別があり、又、その張顔の良否を検別するには3ツの方法がある、との意味である。
※註
過去の張顔は弦を張らない弓の貌、現在の張顔は弦を張った弓の貌、未来の張顔は弓を引き納めたときの貌を云い、三世の張顔と云う。
弓の張顔には、大別して3種がある。
1、握りより上部が弱く、下部が強い弓
2、握りより上部が強く、下部が弱い弓
3、握りより上部下部の均整のとれてる弓
尚、この外に次の3種がある。
1、入木の弓
2、出木の弓
3、中庸の弓
又、検別する三法は、現在の張顔を見る、次に未来の張顔を見る、次に弦を外して過去の張顔を見て、その弓の良否を検別する。
(感想)
ここで張顔のことが出てきましたか。弓右衛門の本分といってもいい話題です。ここで感想をいうのは量が長くなるので、まとめます。
現在の顔を確認するのは大切ですが、もっと大切なのは未来の顔を気にすることです。今の顔が良くても、引いてみたら凸凹した顔になる、というのはよくあります。
それは弓には厚い薄い、広い狭いがあるので、それは未来の顔としてでてきます。現在の顔は良くても、未来の顔は残念になる、逆に現在の顔は少し残念でも未来の顔はすごく良くなる、そんなこともあります。
この歌はとっても好きで、竹弓に携わる人全員に見てほしいものです!
1144 本多
(歌意)
張顔には過去、現在、未来の3ツの形をよく見極めて、よい弓を選定せよ、との意味である。
(感想)
前述の記載と同じ意味でありますので、張る前、張った後、引成りを3種類だと思います。最終的な形を思い浮かべて、良い弓を選びたいというのは射手の願いですよね。
でもひとつ不思議なことがあるんですよ。
張る前の姿と、選ぶというのが結びつかない。どんなシチュエーションで使うのか、思いつきますか?
お店で購入する場合、張る前の姿は関係ないです。そこからどんな風に曲るか想像できるんでしょうか?いや、それなら引成りでいいですよね。
村師が藤放しの状態からどれを選んで村取りするのか、それをお店がどれを進めるのか、射手がどれを選ぶのか。まさかの登場人物が複数いるという読み解き方もできちゃます。
それともあれですか、先人たちは1人で藤放しから買って、自分で仕上げて、それを引いていたってことなんでしょうか!?もうそれでいきましょう。それがロマンですもん笑。
1145 竹林
(歌意)
月は弓のことを譬えたもの。手農地を直に取れと云う意味である。即ち、弓に出入りのくるいがあっても、手の内さて確かであれば疑わず射よ、もし、少しでも疑いがあっては弦道の迷いとなる、との意味である。
竹林の本書第3巻の註に、「出る共入るとも月をと云うは、弓を月に譬えたり。歌の心は手の内を直ぐにとれと云意也。よし弓に出入りのくるひありとも手の内にうたかひなくとれと云なり。少も疑ありては弦道のまよひとなるべきぞといへり。出る共入ともに依て弓を月にとり出したり。註(本多利実扇)曰、出入のある弓を射る時、弓の出入にこころを置時は、それが為射損することあるにより、心一つの物なる事をいひし也。尤詳細にいふ時は出る弓は後ろ矢の出る物也。入る弓は前矢出る物というは古よりの定め也」と。
又、註に「出るとも入とも月をと云心は、手の内をとりてより正路にする心也。口伝万々也。此歌の口伝は仏説にも過たる事也。秘して不註なりという事に付て云へる也。
(註)仏説にも過たるとは正路なりといふ事に付て云へる也。別の事なし。註(本多利実扇)曰、出るとも入ともいうは、弓の出入の事にて、其事には気をかけずして唯たたしく正路に手の裏を取るべしとの事也」とある。
※註、尾州竹林派、四巻の書「歌知射」の巻登載の歌。
(感想)
弓に疑問を生じた瞬間に射ることに迷いがある。手の内が決まったなら、多少の出入りの狂いをカバーできるほど素晴らしい射となるから気にするな、というポジティブシンキングで捉えます。この弓は中らないからな~って思いながら引くことはないですが、出入りの狂いがある弓を引くと的中しても傾向は出てくる気がします。的の右側に集まったり、上に飛びやすかったり、でも的には飛んで行ってくれるので、あまり気にしていないです。狂いがなくても外れるときは外れるんです。
失敗した時にギリギリに入るやつは、弓のおかげではなく運のおかげと思ってます。失敗さえしなければいいんですから。(失敗率のほうが高いです。。)
1146 雪荷
(歌意)
射る人は誰でも十五間の的前は、弓の張の低いものがよく、軍陣(要前)には弓の張の高いものがよいとの意味である。羽は張の当字。いかけ弓は遊び弓。即ち十五間の的前の事。こ口は虎口で、城門の口、即ち軍陣のことである。
(感想)
張の低い弓は楽しいですよね。弓返りの速度も、弦音も、楽しんでます。これは現代の竹弓だからできることなんですかね?
戦でいいと思いますが、戦では張の高い弓。思いつくプラス効果としては、関板と弦が離れるので、弦音が出にくくなり、敵に感づかれる可能性が低くなるということでしょうか。貫徹力はなくなるので、鎧は貫けないとは思いますね。
弓を用いた戦術は鎧を貫くというよりは大人数で遠方から足元を狙う、ということを聞いた気がします。鎧を貫く場面が必要になる前の想定をしてると考えると納得な気がします。鎧を貫くにも、技術は必要なんでしたっけ?そうなると、日頃から修練を積んだ精鋭をたくさん用意しなければならず、それなら槍術や剣術の向上に努めたいですよね。(鉄砲もありますしね)
しかも、江戸時代にしても、一部の地域でしか弓を持つことを認められてなかったので、やはり技術普及は難しかったのでしょう。
1147 大蔵、印西
(歌意)
虎口は軍陣の意。いかけ弓は十五間の的前。近頃は把の低い弓を好み用いるが、的前には把の低いのが調子がよい、軍弓には把の高いのがよい、との意味である。(上歌を参照)
(感想)
近頃は、っていうのは現代でも通じるのでしょうか。把を低くすると、弦音も鳴りやすいですし、弓返り速度も速いので、的前では好まれそうですよね。軍弓というと、戦で使われる場面を想定されます。
となると、距離としては遠的と考えていいでしょう。把を高くすると弦音は響きにくくなります。敵に気づかれにくくなるという点では有利でしょう。でも、暗殺とか奇襲といった気づかれにくい場面でしか有用ではない気がします。そうなると、遠的で把を高くする狙いとしては、弓が安定して矢を飛ばしてくれるということでしょうか。これはやったことないことなので、実践してみないと分からないですね。
1148 日置
(歌意)
同上
1149 竹林
(歌意)
張顔の把細(把の低い)のは手際弓(的前に用いる弓)であり、用方(軍陣用)には、把の高い弓を用いよ、との意味である。
(感想)
2つ前と同じです。
予定では、あと2回ほどこの話題が続くと思います。
それだけ後世に伝えたいことが多いのか、表現方法が違うのか、
それとも射技は口伝として、弓具関連は文章で残してしまっても大丈夫、ということなのでしょうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?