【弓道教歌】射と弓具の関連(2)★
射と道具の関連の2回目です。
今回は強弓を使うことに関しての歌になります。
1回目はこちらです
1129 吉田
(歌意)
強弓を好む射手の心は、下手な者の心持ちである。それは弓力は弓にあると思うからである。しかし、実際は矢飛びよく貫徹力の強いのは放れの稚拙にあるので、単に強弓を用いて放れが拙(ヘタ)であれば、矢は陸(ロク)に行かず、貫徹力も少ない故、徒(イラズラ)に自分の力量以上の強弓を用いるな、との意味である。
(感想)
矢飛びを良くするために強い弓を求めるのは間違ってますね。手の内、伸び合いを極めるように修練していけば、今以上の貫徹力を出すことができるかもしれません。
自己顕示欲のために強い弓を引く人が技量不足なのでしょうね。(自己反省)
弓が強いほど弓返り速度が出るわけでもないので、道具と技の一体化が重要なのでしょう。
1130 射義指南書
(歌意)
同上
1131 本多
(歌意)
同上
1132 本多
(歌意)
昔強弓を引いたという有名な人があるが、その人は只単に強弓を引いたと云うのでなく、その強弓を十分射こなすだけの技倆(※)に達した人を云うのである、との意味である。
※技倆・・・技量の意
(感想)
強い弓を引いてるだけでは有名にはならない。射型も伴わず、的中も出ない人は記憶にも残らない。
「強い弓を引いてるけど、的中全然出ないんだぜ」みたいな噂しかない。そんな風に思います。
人々の記憶に残るのは強い弓を引いていて、かつ技量が高くて、人格も良い人ですよね。
当時は肩書きは関係ないし、射技と人格で人々に慕われていたことが推察もできます。
強い弓を引いてることだけを強調してる人は、もっと技術を磨きましょう、という教訓にもなってるかもしれないです。
1133 吉田
(歌意)
力に餘る(自分の体力と技倆に餘る)強弓を引くときは、自ら縛の縄にかかるのと同じで、弓射るのではなく、弓に射られるのであろうから、どうして矢業のある筈がない、との意味である。
縛の縄とは不動明王の持ち給う縄のことである。
※餘る・・・余るの旧字
(感想)
縛の縄・・・不動明王が持つ羂索(縄の意)のことみたいです。
羂索・・・
”縄や網は、生きものをしばりあげ、その自由を奪うための狩猟用具であるが、仏教においては、「羂索とは慈悲の索なり」との教えにあるとおり、俗人たちを残さず救いあげるみ仏の広大無辺な慈悲の心が、便宜的に羂索で象徴されているのである”
最初に解説を読んだ時は「技量以上に強い弓を引くなんて、弓の性能を引き出せないのは当然だ」と思いました。
矢束まで引いてこれない弓、伸び合いができない弓は、性能を発揮した弓に劣ると思ってます。
しかし、縛の縄は慈悲の表れなんです。これは射手に対して「そんな強い弓を使っていては上達しないよ」と気が付くきっかけを与えている(≒慈悲)と解釈しました。ただの縄ならば縛って終わりです。
以上、”強弓を使うことに関しての歌”についてでした。
皆さんの感じたことを是非コメントしていってください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?