伝えないことを選んだ恋のお話。
数年前、わたしが前の会社にいた時のお話。
「初めまして。1日付けで異動してきました。〇〇です。宜しくお願い致します。」
正面のデスクに、彼が来た。
モテそう。仕事できそう。自信ありそう。
笑顔が嘘っぽい。ハキハキしてるなぁ。
丁寧。なのにちょっと圧。
自信あるんだろうなぁ。
はい苦手。
これから毎日正面にこの人か、、が正直な感想だったし、そもそも新しい人が得意じゃないわたしにはかなり不安だった。
「初めまして。アオと申します。宜しくお願い致します。」
まぁ、とは言えわたしは数ヶ月後に転職を控えていた。もう正面に誰が座ろうが関係ない。何も波風立てず終える。それで十分。
丁寧に、挨拶を返しておいた。
あまりいいスタートとは言えない彼との日々は、こうして始まり、それから毎朝、同じように「おはよう」と迎えられ、毎晩、同じように「お疲れ様」と送られた。
そんな感じで、彼はわたしが何時に出社しようが変わらずそこにいることになるんだけど、仕事中もデスクトップのその向こうには常に彼の姿を捉えていた。
彼の一日は、なんて言うか、すごい。
早朝にはオフィスにいて、現場とオフィスを行ったり来たりしながら、文字通り全ての業務を平気な顔をしてこなす。
彼の下す判断にはグレーがない。白黒はっきりしている。
そして、
顔に似合わずとても綺麗な言葉を遣うけど、部下には決まってちょっと怖がられる。デスクは散らかりがちだけど、パソコンの中は分かりやすく整理されている。置いてあるメモの文字はとっても綺麗で、柔軟剤みたいな香水に混ざって、たまに少し煙草の匂いがする。ハンガーにかかったジャケットは大体少し曲がったままだった。
完璧さと不完全さ、清潔感とだらしなさ。
生活感を感じない仕事ぶりの中に滲む生活感に、不思議と嫌な気はしなかったんだと思う。
だから、そんな彼が実は笑うととっても可愛らしいということを知るのに、そんなに時間はかからなかった。
ある日、可愛い笑顔でデスクトップの下から、滑り込ませてきたメモ。
「聴いてみて」
あるアーティストの曲が2つ、並んでいた。
へぇ、こういう曲聴くんだ。
洋楽のそれは、疲れた心に染みる、優しい歌だった。何て言ってるか分からなかったけど。
そんなベタなきっかけから、仕事以外の会話が増えた。
休日の過ごし方、好きな食べ物やお酒のお話、趣味のお話、実家にいるペットの自慢、過去の恋愛。
なんてことないことを本当に少しずつ話した。
LINEを聞かれた時は分かりやすく喜んだ。
どちらかが飲みすぎた朝は、
何度かお互いにモーニングコールをしあったし、
他の人の目を気にしなくていいLINEでは、くだらない冗談も言えた。
完璧な彼から聞く仕事の愚痴はちょっと嬉しかった。
ただ、どちらからも誘わなかった。
大勢も含めて1度も、プライベートで会ったことは無い。
家族みたいな人といえば、そんな感じだし、
尊敬する上司といえば、間違いないし、
でもそれだけではない気持ちも多分あった。
結局どうなったかっていうと、それがそのまま退職まで続いちゃった。
自分の部下を叱る顔。
上司や顧客に謝罪する声。
子供に向けられた優しい目。
好きなコーヒーの濃さ。タバコの銘柄。
少しずつ、いろんな彼を知っていったのに。
彼が休みの日は寂しかった。
彼と現場に立つ時間は緊張した。ドキドキした。
でも、やっぱりパソコン越しの方が顔が見えるから好きだなって思ったり。
仕事の相談には大抵、「アオがしたいようにしろ。」
だから悩んだことはあっても、迷ったことはなかった。
そうやって少しずつ、いろんな気持ちを知っていったのに。
ちなみに、曲がったジャケットは、毎日わたしがこっそり直した。
―念願叶って、「波風立てず終えた」退職の日。
デスクの片付けを終え、全員に挨拶をして、わたしは温かく送ってもらった。
彼は「お疲れ様。」と一言。
握手をした。
初めて触れた。
わたしは、気持ちを込めて、少し長く握った。
転職先は、わたしが夢見ていたお仕事。
確か引越しまで、5日くらいあったかな。
連絡は一度もなかった。
退去当日、残っていた少しの荷物をまとめて、1人空港近くのビジネスホテルに泊まった夜。
何か大きなものを手放したような開放感と、少しの達成感と、虚無感と、覚悟と。なんかとっても綺麗に終わったなぁ。って、ぼーっと思ってた。
それなのに。
LINEが鳴った。
それなのに、じゃないか。
あぁ、やっと鳴った。、、遅いよ。って思った。あとは、今更なに?とか、なんで今日まで連絡の一つもないの?とか、もう可愛くないことばっかり思った。
「アオ、今どこ?」
「ほぼ空港です」
すぐに電話が掛かってきた。
「アオ、夜にごめんな。飛行機明日だよな?出張で空港近くにいるから、明日の朝見送り行かせてよ。」
「今どこにいるんですか?」
「あー、支社。」
いやいや絶対嘘。
あなた出張無いじゃん。でも、今は言わないことにした。
ただ、会えるならなんでも良かった。
便名と時間を伝えて、平然を装って「おやすみなさい」と言った。
翌朝、本当に空港に彼は現れた。
ほとんど手ぶらで、私服で、出張なんてやっぱり絶対嘘。
でも、もう言わないと決めた。
ただ、会いたかった。
平然を装って「お疲れ様です」と言った。
対峙した彼は確かに、わたしの好きな人だった。
でも、もうどうしようもない。
わたしは飛行機に乗る。もうきっと会うことはない。
とにかく居心地が悪くて、とりあえず背筋を伸ばしてみた。
話始めたのは彼だった。
初対面で自己紹介した時のように、丁寧で、ハキハキと、自信たっぷりに。
でもあの頃と違って、優しく、ゆっくり。
「会いたかったから来た。アオが仕事で悩んだ時、アオがしたいようにしろ、って言ってたでしょ、俺。今回は俺がどうしたいか、考えた。勝手だけど、俺が会いたかった。いい年してかっこ悪いけど。」
泣く予定はなかったのに。
「新しい職場でも、しっかりやれ。でも、いつでも帰ってこい。」
予定は崩れた。
おっきく息を吸って、背筋を更に伸ばした。
何か言わなきゃ。好きだった、とか、ほら、何かあるでしょ。
全部飲み込んでおっきく息を吸った。
彼は続けた。
「大丈夫、何も言うな。
ただ握手して、じゃあねって言え。」
握手した瞬間、思いっきり抱きしめられた。
「ありがとうございます」しか言えなかった。
あとは子供みたいにわんわん泣いてた。
結局、正解ってなんだったんだろう。何年も経った今でも分かんない。
あの日も、あの日までも、
わたしだって、彼だって、いくらでも伝えることはできた。
でも、伝えなかった。
わたしの夢を守って何も言わなかった彼に
わたしが何かを言う権利なんて、何度思い出して考えても、絶対なかった。
あれから数年経って、先日、
「アオさん、○○さん知ってますか?」
と後輩から言われた時は、心臓が飛び出るかと思った。
「前職で一緒だったんです。わたしがこの会社に入るって言ったら、アオって子が居るから、会ったら宜しく伝えておいて。って言ってました。」
始まらなかったから、ずっと大切にしまって生きていける。
ずっと、迷わず生きていける。
きっと今もどこかで少し不器用に生きる彼の幸せを、今は心の底から願ってやまない。
「しっかりやってる!って伝えといてくれる?」
わたしの気持ちがちゃんと昇華した瞬間だった。