夢ノート
少し涼しさを感じ始めた秋口のある日、僕は見知らぬ施設の敷地内にいた。
周囲には大きな建物が並んでおり、各棟には端の方から順に番号が振られている。かと思えば大きな木が植えられている広場があったりして、無機質一辺倒な空間というわけではなかった。
施設のとある棟で何かしらの用事を片付けた後に外に出た瞬間、不意に一人の女性に声を掛けられた。
「このノート、要らない?」
横に振り向くと、背丈が170cmぐらいの細身な女性が少し上目遣いで一冊のノートを手に立っていた。表紙には秘という文字がそれはもう大きく書かれている。秘密の割に堂々とし過ぎやないかいっ。
「ここに全て書いてあるんだ。私はもう使わないから、君に上げるよ」
頭の中で些細なツッコミを入れていると、不思議な雰囲気を持つ彼女から譲渡の提案が飛んで来た。
恐らく初対面の僕に何故そんなことをしてくれるのか。中身は何なのか。ノートの持ち手に毒でも塗っているのではないか。様々な可能性が数瞬の間に脳を駆け巡る。
「有難うございます。この御恩はいつの日かお返しします」
慎重派の自分が大胆にも受け取ろうと手を伸ばしたその時、目の前が真っ白になった。
目の前には天井が広がっていた。
なんのことはない。高三の夏、エアコンの冷風を浴びながら僕は夢を見ていたのであった。そりゃ見知らぬ施設なわけだ。
酷く長い時間囚われていた気がした施設での一時は、起きた瞬間には既に多くを忘れてしまっていた。しかし最後のシーンだけは明確に記憶に刻まれている。
ある日、一人の人間が一冊のノートを作る事を決意する。
大学受験に関する知識や戦略を簡潔に網羅的に徹底的に寄せ集めた丸秘ノート。これさえ読めば誰でも学力が向上し戦を勝ち抜ける必殺の一冊。
夢の彼女からノートは貰えなかったが「ノートを作るアイデア」を確かに受け取り行動に移した。
——そして少年は京都大学に合格するのであった。一冊のノートと共に。
大学入学後しばらくして、一度だけ見知らぬ女性に声を掛けられたのは、きっとまた別のお話である。