つまみ食い上等 その8 ジョン・チーヴァー 五時四十八分発 田口俊樹訳
『ハヤカワミステリマガジン』2024年7月号「令和の鉄道ミステリ」特集に、1982年9月号の同誌での「鉄道ミステリ』特集から再録。
初出『ニューヨーカー』1954年4月10日号。
男性主人公のブレイクと、ブレイクが勤め先の会社で秘書として使った女との、痴情のもつれ。
いや、痴情のもつれというとブレイクに悪い気もする。これ女が自分から誘ったもののやり捨てされて、それでもともと精神的に問題を抱えていた女が男を逆恨みして、恨みをはらしにきた話だし。
男の方は、すっかり忘れていた女が悪霊のように蘇って害をなしてきたという感じでは。
狭義のミステリ小説ではなく、少なくとも謎解きではない。主人公の追い詰められていく状況や気持ちが堪能できる、良質のスリラー、名短編。最終的に主人公は命拾いできて、読後感としてはくわばらくわばらみたいなところもちょっとある。
女が勤め始めてから3週間ほどたって、主人公のブレイクは彼女を初めて酒に誘う。そうしたら彼女は家にウィスキーがあると言いだし、ブレイクは彼女の家へ行き、彼女と寝た。その翌日ブレイクは、彼女をクビにした。
女はおそらく20代、ブレイクはおそらく中年。妻とは疎遠で14歳の息子がいる。ブレイクはそれまでにもたびたび妻以外の女に手を出していた。
クビの数日後、女は会社までやってきたけれど、ブレイクは受付に、彼女を中に入れないよう伝えた。彼女は2週間毎日会社へ行きブレイクに伝言しようとしたけれど、それも阻まれた。
彼女が雇われたのが6ヶ月前だという設定だから、雇われて3週間でクビになり、その数日後から2週間会社へ日参してから約5ヶ月弱後、ふたたび彼女は会社の前までやってきてブレイクを待っていた。ブレイクは彼女に気づいたけれど、無視して通り過ぎた。
尾行してくる彼女をまこうと、ブレイクはバーに入ったり、五時四十八分発の各駅停車の電車に乗ったりする。電車にはブレイクにとってさほど快くない隣人が2人乗っていたけれど「身に迫った危険をやり過ごした後では」そういった隣人たちさえ懐かしかったというのは、そこに日常が現出している安心ゆえで、うまいなぁと思う。
しかしここに、彼女がやってきて「ブレイクさん」と話しかけてくる。怖い。
ミステリマガジン編集部I氏は「解説」で、ブレイクが彼女の名前をこのときまで思い出せず忘れていたことが小説のラストで効いていると指摘する。その通りだと思う。
彼女のほうもたしかに、恨みをはらしたことによって「彼のことなどもう完全に忘れてしまっている」。これは重い指摘なのではないか。完全に忘れて、その件に拘泥しなくなること。
女の方はブレイクに理想的な男性像を投影して、本気で好きになったから家に誘ったのだろうけど、あてがはずれたというところだろう。ちょっと親切にされたからって勘違いしたのかというのも「孤独な女」らしい。
ブレイクのほうも、8か月入院していたと打ち明けてきたり、自分の実態とは異なる良いイメージを投影してきた彼女が「きわめて感じやすく、そのため孤独な女」で「精神的な葛藤」があることや、また彼女には幸福な家庭経験が「欠落」していることも見抜いていたのに、そんなヤバそうなメンヘラ女に手を出したら後で面倒くさいことになると思わなかったのか。
とかとか、双方にツッコミどころがある。
8ヶ月入院していたというのもリアリティがある。精神科の入院で7ヶ月の入院と8ヶ月の入院とではよくなり方が違うと読んだことがあるのを思い出した。
「解説」に、ブレイクは本当にひどい男だとあるけど、いやたしかにブレイクも手を出して速攻クビにするとかひどいけど、女のほうも男の趣味が悪くて自業自得なのでは。
捨てられたことの復讐にきた女に、ブレイクは殺されはしなかったまでも、女はピストルでブレイクを脅しつつ、殺すかのように追い詰め、彼を自分のなかで象徴的に殺して「望みを果たした」。
彼女がブレイクに宛てた手紙も、語ることもすべて、実際のブレイクとは関係ない。この女のひとりよがりの妄想ばかりだと聞こえる。
女にとって本当に殺したかった男性はおそらくは父親で、彼女はブレイクを殺すことで象徴的な父殺しを果たしたとも言える。
その相手としてたまたま彼女に選ばれ、それに乗っかって彼女に手を出してしまったブレイクは、彼女に象徴的に殺される役までを務めきっておつかれさまと思うけれど、これを男性が読むと、うかつに変な女に手を出したらおそろしい目に逢うなぁ、かも。
1955年、O・ヘンリ賞受賞作。
O・ヘンリ賞(オー・ヘンリー賞)受賞作品を読む
ミステリマガジン2024年7月号
ジョン・チーヴァー John Cheever 1912-1982
田口俊樹 1950-
他の日本語訳は、こちらによると
徳永暢三「ニューヨーク発五時四十八分」が荒地出版社の次の2冊に収録。
斎藤数衛編『現代アメリカ作家12人集 : ジエイムズからアップダイクまで』1968
刈田元司編『現代アメリカ作家集 : ジェイムズからアプダイクまで』1971
また門野集訳「五時四十八分発」が小森収編『短編ミステリの二百年〈4〉』(創元推理文庫 2020)に収録。
全6冊のこのシリーズは第75回日本推理作家協会賞【評論・研究部門】受賞。