プロ奢の言う「ゼロコスト」とは結局なんなのか?
こんにちは。これを見てるのはほとんどスラム民だと思うので説明はいらないと思いますが、一応プロ奢のよく話すゼロコスト論についてざっくり説明すると「自分にとってのゼロコストのものを見つけて、それを無限にやれば簡単に狂人(凄い人)になれるし、狂人になれば遊びで生計立てていけるじゃん!」みたいな考え方のこと。多分。間違ってたらごめん。
話に筋は通ってるし実際プロ奢もこれで生計立ててるぽいので事実であるとは思うけれども、なんとなく納得いかないところがあるので納得いかないところを消化していきたい!プロ奢を取り込もう!
まぁ俺が納得できない理由は1つしかなくて、端的に言うと「現実的に不可能」だからだ。
よく考えてみてほしい。コストがゼロなことって何がある?プロ奢は「人と会って話すことがゼロコスト」とか言ってたけどちょっと待ってくれ。無理だろゼロは。人と会って話すためにはそもそもそれまで生存していなければいけなく、我々人間は必然的に飯や家や医者やその他もろもろのコストを抱えることになる。
プロ奢が実は人造人間で飯も家も医者もいらないとかいうのであれば話は別だが少なくとも我々はそうでは無い。プロ奢の言うゼロコスト論は我々には現実的に不可能であると言うしかない。
↑こんな感じのことを考えていたら、だんだん「なんでみんなこんな当たり前のことに気づかないんだ?」という気持ちになってくる。そしてその気持ちを発散するためにスラムやプロ奢のTwitterを見漁ったら衝撃の事実を見つけた。
みんな「ゼロコスト」という表現から「ローコスト」という表現に切り替えているのである。
たしかにそれなら現実的に可能だ。完全にゼロにするのは無理でもコストを減らしたり、自分の中のローコストを見つけることは出来る。
いや、でもちょっと待ってくれ。
さっきも言った通りプロ奢のゼロコスト理論は「ゼロコストなら無限回出来て、それなら確実に狂人(凄い人)になれる」っていう話だ。それは分かる。現実的には無理でもこの一文自体には矛盾はない。無限に何かやればそれは確実に形になる。当たり前だ。だって無限だもん。
でも「ローコストをほどほどの回数やる」は別に形になるとは限らない。だって無限じゃないんだもん。「白米を無限に食う」だったら狂人になれるだろうが、「白米を一日3回食う」じゃあ別に狂人になるとは限らない。というか一般人街道まっしぐらだ。
もちろんローコスト理論も上手くいく時はある。事実、スラムには「白米をローコストで毎日6回くらい食らう」という荒業で生計を立てている凄い人もいる(誰とは言わない)。
ただ、必ずしも成功したり、どんな場面でも使えるほど、この論理は万能じゃあないということだ。
結局プロ奢は何がしたかったのか個人的に考えてみた。その答えは「コストを減らすことの大事さをちょっと過剰に表現したかった」んだと思う。ゼロや無限という言葉を用いて我々の認知に「コストを減らす」という概念を導入したかったのだ。プロ奢自身がこのゼロコスト理論を好きなのを加味するともしかしたら自分自身を遠回しに納得させてやりたかった、自分の考えに強制的に変化をもたらしたかったのかもしれん。
(それかSNS芸人としてそれっぽいこと言って注目浴びたかったかの二択。)
まぁだから、良い子のみんなは臨機応変に行こうぜ。ローコストを極めた方がいい時は極めたらいいし、逆にちょっとハイコストでも良い結果が手に入る場合はちょこっとだけ無理してもオトクかもしれない。結局、時と場合によるとしか言えんけど。
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