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鬼丸大河「兵どもが夢のあと」下

・義経の死

当主・泰衡とそれを補佐する兄かつ義父・国衡の体制で奥州はまとまりました。

しかし秀衡が亡くなる前から続いていた、鎌倉からの「かくまっている義経を渡せ」という圧力は次第に増していきます。

初めは秀衡の遺言を守り要求をはねのけていた泰衡でしたが、ついに度重なる圧力に屈します。

義経の館を襲撃。義経は妻子、家臣たちと共に果てました。享年31歳。

義経の首は鎌倉に届けられました。

義経の首

泰衡のこれまで義経をかくまっていた罪、そして義経を殺した罪は大罪であるとして、頼朝は奥州攻めを始めます。

泰衡はここに至って、頼朝の策略により頼朝や鎌倉方が恐れていた義経を自ら殺してしまったことに気づきますが、後の祭りでした。


・奥州合戦、開戦

頼朝は全国から兵を集め、奥州を目指します。
その数28万。

これに対し、泰衡も奥州中の兵を集めます。
数は定かではありませんが、秀衡の全盛期には17万の兵を動員できたと言われています。
それでも鎌倉軍の半数でした。

奥州3

鎌倉軍は3手から奥州へ侵攻します。

頼朝と畠山重忠は栃木方面、千葉常胤と八田知家は茨城方面、比企能員は新潟方面。

対する奥州軍は、国衡が大将として阿津賀志山に布陣、泰衡は総督として多賀城へ入りました。


・阿津賀志山の戦い

頼朝、畠山重忠らは大軍で阿津賀志山に総攻撃をしかけます。

国衡率いる奥州軍も3日間にわたって防戦するなど奮戦しますが、鎌倉軍の別働隊に背後を奇襲されると混乱に陥り、ついに潰走しました。

国衡は山形方面へ逃れる途中、鎌倉軍の和田義盛に討たれました。

和田義盛

大将・国衡の死を知った泰衡は多賀城を放棄し、平泉へ退却しました。


・平泉陥落と奥州藤原氏の滅亡

阿津賀志山の戦いでの大敗で大打撃を受けた奥州軍は、戦線を立て直すことができませんでした。

各地で散発的な戦は起こるも組織立った戦を行う力は無く、ついに泰衡は平泉に火を放ち、さらに北へ逃亡しました。

京に次ぐ日本第二位の都市とまで呼ばれた平泉でしたが、鎌倉軍が到着したときには焼け野原となっていました。

阿津賀志山の戦いが始まったのが8月7日、鎌倉軍の平泉入りが8月22日。
100年に渡り奥州藤原氏が発展させてきた平泉は、わずか2週間で滅亡したのでした。


8月26日、頼朝のもとへ泰衡から降伏の文が届きます。

・義経をかくまったのは父・秀衡であり、自分は知らなかった。
・頼朝の命により義経を討ったのだからむしろ勲功である。
・その勲功を認めて自分を頼朝の家臣にしてほしい。
・それが許されないなら、せめて命だけでも助けて欲しい。

頼朝はこれを無視。
泰衡を追ってさらに北上します。

9月3日、北海道へ逃亡すべく秋田に入った泰衡は、そこで家臣・河田次郎に裏切られ殺害されました。

ここに奥州藤原氏は滅亡しました。


・その後

泰衡の首が頼朝のもとに届けられると、「主を裏切るとは許しがたい」として河田次郎は処刑されました。

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泰衡の家臣・由利維平が頼朝に捕らえられました。

頼朝は勇士として知られる維平に会い、

「泰衡は奥州17万の兵をまとめており、これを倒すのは難しいと思ったが、わずか20日ほどで滅んでしまった。しかも最後は家臣の裏切り。あっけないことだ。その理由は、泰衡に優れた家臣がおらず、泰衡自身も愚かだったからだ」

となじりました。

すると維平は、

「かつて源義朝(頼朝の父)は大勢力であったが、平清盛と戦った平治の乱でわずか1日で敗北しました。さらには逃走中に家臣の裏切りに会い、殺されました。敗将の最後と言うのは、今も昔も変わらないものです。

それに対し泰衡は、当時の清盛・義朝より大きな戦力差がありながら鎌倉軍の侵攻に20日耐えました。決して愚かな主君ではありません。」

と返答。

頼朝は何も言い返せず、維平を許し家臣に加えました。


奥州合戦が終わり頼朝が鎌倉へ帰還すると、泰衡の家臣・大河兼任が反乱を起こしました。

兼任は「自分は木曽義高(義仲の息子。頼朝の娘の婚約者)だ」と宣伝。

木曽義高

鎌倉政権に不満を持つ奥州の勢力を集めます。

この乱は奥州中に広がりますが、鎌倉軍との3ヶ月の戦いの末終結しました。

この乱で奥州の反鎌倉勢力は一掃され、以降は奥州は鎌倉政権の支配を受け入れるようになりました。


藤原秀衡の息子6人のうち奥州合戦後も唯一生き残った高衡(たかひら)は、京と新潟で発生した幕府打倒の反乱・建仁の乱に参加するも、幕府軍に鎮圧され討ち取られました。



これにて奥州藤原氏の物語は終了。


それから約500年後。

平泉の地を訪れた俳人・松尾芭蕉はこんな句を詠んでいます。

「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと」

かつて栄華を極めた平泉も今や夏草が生えているだけである。

奥州藤原氏も、義経も頼朝も、まるで一夜の夢のことのようだ。


おわり