エスカレーター 壱

「 予備校での授業にも漸く慣れた頃にやって来るのがゴールデンウィークです。授業はいつも通りありますから、皆さんきちんと参加して下さいね。」そんな放送を半ば上の空で聞きながら教室を後にした。
そのまま学生寮に帰れば良かったのに…。
池袋の街を歩く度にそう思う。

予備校の試験だけ合格した僕は、親の情けにすがる形で東京へ出てきた。ただし、予備校の学生寮に入る条件付きで。勉強することが仕事な訳だから、それは当たり前のことだろう。池袋から郊外へ向かう私鉄の沿線にある学生寮に入ったのが3月の下旬だった。
都心の予備校に向かう満員電車にも漸く慣れたその日の帰り道、僕はノートを買うためにデパートの文房具売り場を目指していた。

3階に向かう上りのエスカレーターにくるっと身を翻したとき、ちらっと見えた横顔に見覚えがあった。もしかして、僕の目の前に立っている女性はいずみちゃんではないのだろうかと思った。
でも、確信は持てない。中学卒業以来だから丸々3年の月日が経っている。当然顔立ちも変わっているはずだ。もちろん僕も変わっているだろう。何よりも、あの別れはいずみちゃんから切り出された訳で、ふられた男がいきなり話しかけても嫌なだけだろう。
別々の高校に通うことを口実に諦めたはずなのに…。
頭の中をいろんな想いがぐるぐると駆けめぐる…。

エスカレーターが5階から6階に向かう曲がり角で、僕は彼女の前に出た。

そして、振り向いた。

正面から彼女の顔を見て確信した。


「いずみちゃんだよね。」気がついたら話しかけていた。

一呼吸おいて彼女はこう言った。
「甲斐くん?」

覚えていてくれたんだ、そう思うと嬉しさで目の前が真っ白になった。

エスカレーターが6階についた。

そこで、改めて向き直った。目の前にいずみちゃんがいた。

(続く)

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