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トラウマ


ずっと自分の誕生日が嫌いだった。



5歳の頃に両親が離婚し、母親と母方の祖父母に育てられた。

父親と暮らしていた記憶はほとんどなく、私の中には嫌悪感だけが残っていた。

毎年誕生日当日になると父親が私を訪ねて来る。

自分の誕生日が近づくにつれて、体が鉛のように重くなる。
息がし辛く、水の中にいるのかと錯覚するほどだ。


幼き私は自分を呪った。
 


「生まれて来なければこんな思いせずにすんだのに」


小学4年生の頃だったか、勇気を出して母親に思いを打ち明けた。


「もう父親と会いたくない。縁を切りたい。」


手元のスライド式携帯電話を見ながら母は

「そんなにイヤなら自分で言えば?これ連絡先。自分で電話しといて。」 

…と、まるでバッティングセンターの球出し機械のように豪速球で私にぶつけてきた。

(これは草野球が趣味だった父親絡みの皮肉である。)


母親の言いなりだった幼き私は、当時主流だった家電(いえでん)の前に立ち番号を打った。

あとは受話器を上げるだけ。

....でも上げる勇気が出なかった。

何度も何度も家電の前に立ち番号を打った。

あとは受話器を上げるだけ。

上げるだけなのにそれが出来なかった。

近づいてくる自分の誕生日。

日を増すごとに鉛が体に蓄積してくる。


誕生日前日、私は泣き叫びながら家電の前に立った。

あとは受話器を上げるだけ。

今日こそ電話して伝えなければ。

また父親がうちにやってくる。

会いたくない。

顔を見たくない。

隣を歩きたくない。

会いたくない。


、、、、もうなんとでもなれ。


受話器を取り父親に繋がった。



「もう会いたくないです。縁を切ってください。」


涙で掠れる視界。

とめどなく流れる鼻水。

嗚咽で声にならない声で伝える。


父親は今まででいちばん優しい穏やかな声で


「そうか、わかった。元気でな」


名残惜しい雰囲気も感じられぬまま切られた。



愛とは何か。


自分は何のために作られたのか。


大人が良くわからなくなった。


それから半月後、些細なことで母親と大喧嘩をした。


「あんたなんか生まれて来なければ良かった」


当時から20年以上経った今でも私の頭の隅っこにこびりついている言葉だ。


小学4年生の私は、全てのことに意味を見出せず生きる価値など何にもないと本気で思っていた。


学校ではやってもいないことをやったと濡れ衣を着せられ、弁解の機もないまま肯定させられた。



「この世界に私の居場所はない」



毎夜、同居人の目を盗んでベランダに出て夜空を見るのが好きだった。


明るく照らしてくる月が憎い。


「私もそこに行かせてよ」


手をどれだけ伸ばしても届きやしない。


「そうだ、どうせ死ぬならあの人の目の前で死んでやろう」


なんて馬鹿なことを考える余裕はあったようだ。

母親が早く帰宅する日を狙って遺書を書き、1階のリビングに置いた。


あとは柵を越えるだけ。

2階にあるベランダの柵に片足を掛け、準備は万端だ。



_________ドタドタドタドタ



般若のような顔をした母親が、今まで見たことのないスピードでやってきた。


自分の足に力をいれる間もなく腰を掴まれ部屋の中に投げ込まれた。


「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい。私が悪かった。」


公園に置いてある噴水のように目から涙を出しながら謝られた。


「こんなんで絶対許してやらない」


そう強く思いながらも私も涙が止まらなかった。



私はそこから小学校の卒業式までの記憶がない。


あの時の小さな私を救ってくれる人はこの世に誰1人いなかった。


大人になった今でこそ"死なずに生きててよかった"と思うものの、私の中の幼き私は救ってあげられない。


死ぬまでずーーーっとあの時の私は泣いている。



言葉は人を殺しも生かしもする。


見えない凶器

見えない優しさ


感じる痛み


感じる暖かさ



絶望を抱きしめた幼きわたしみたいな子供がもうこの世に現れぬよう、優しくて、あったかくて、想いやりの、愛のある世界にしたい。



end.

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Sayaka
サポートしてもらえるんですか?ありがとうございます。おにぎりの具は何が好きですか?あたしはおにぎりあんまり好きじゃないです。