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Don't be "if",take action.
-プロローグ
タイトルの言葉は高校1年生の秋から座右の銘にした言葉だ。なぜ、この言葉にしたか。それはこれを読んだら分かることだろう。
辛く楽しく過ごした中学校生活が終わった。
そして始まる高校生活。
1年、1日、1時間で人って変わるんだなとか、そんなことを思いながら過ごす日々が始まるとは思っていなかったのだ。
そんなことを過ごす中で、再び運命を変える出来事に。その1日が俺の軸にする言葉が生まれる日になるとは当時の俺は思っていなかった…
-高校1年生~春~
4月、遂に佐渡高校に入学した。
最初のクラスは4組。仲の良かった人達はみんなバラバラに。周りには佐渡の色んなところから来た人たちがいた。
入学式の日に新しく話せたのはたった1人。それもまさかの女子だった。だが、俺は話せる人ができたので凄く嬉しかった。
入学式が終わってから、すぐに俺は体育館へ。部活に参加するためだ。道具もちゃんと持って部室へ向かった。
後片付けの手伝いを終え、遂にスタートしたバレー生活。プレーが周りよりとても劣っていたので、別メニューを取り組んだ。
やっと入れた。これからコートに入って先輩方と一緒に全国目指そう。そんなことを思っていた。
だが、その思いを打ち砕かれそうな出来事が。
新型コロナウイルスウイルスの蔓延により学校が休校にすることになったのだ。せっかく高校でのバレー生活が始まったのに…と思っていた。
でも先輩方は希望を捨てていなかった。大会が開催される。絶対に全国へ行く思いがとても強かった。その姿を見て、全力でついて行かないとやばい。と思った。
そして休校生活が始まった。毎日朝7時からはzoomによるミーティング。日中は勉強をしているか、先輩方と一緒に外でバレーをしてるか。夕時にはランニング、体幹トレーニングを毎日やった。
外でバレーをやる、と言っても中々うちの近所には場所がなかった。なので自転車でいろんな所へいった。両津のおんでこドームや、サンテラ裏の公園とか自転車かっ飛ばして行き、たくさんボールを触った。
また、休校期間になり自分の進路も考えようと思った。中学までは学校の先生になろうと考えてた。理由はシンプル、得意教科であった社会を活かせるから。でも、なんか違うなって思っていた。
それがきっかけで色々ネットで調べた。そしたら「観光」の文字に目が止まった。
その文字も見た時、これなら自分の得意な社会も活かせる、それにコミュニケーション能力も活かせるなと思った。
それと地元に貢献できるという思いが浮かんだ。今まで育ってきた佐渡に恩返しができると思った。
その日から、俺は佐渡で観光に貢献する人になるという夢を抱いた。進路も自然と決まった。「観光が学べる大学に行きたい。」その思いに変わっていった。
親はもちろん反対だった。今の状況を見ればわかるだろうと言われた。けど、俺は決めたから。と言って一蹴した。
その日から勉強する意義は「観光を学べる大学に行く」ということに変わっていったのだ。
色々と転機を迎えたコロナ休校。
遂に終わり、学校生活が本格的に始まるのである。
-高校1年生~夏~
休校が明け、クラスメートと沢山話し始めた。一学期を終える頃にはみんなと話すことが出来たと思う。
やっと高校生活が始まったが、休校期間に悲しいニュースがあった。
全国高校総体が中止。
その影響で県総体も中止になってしまった。バレーでも大学を続ける先輩方以外は競技の一線を離れることになってしまった。
だが、そんな中でも全員が上を向き続けた。春高でもう一度全国へ出る。その想いで練習に取り組み続けた。
テストも終わった7月。初めて遠征へ行った。この時はサポートメンバー。凄いなと思いながらずっとプレーを見ていた。その帰りにジェットフォイルから見た夕日は忘れられないものになった。
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迎えた夏休み。毎日のように体育館へ行き、練習した。1番体育館にいた部活だと思う。それくらい長い時間練習した。辛いとかきついとかはほぼ思ってなかった。大好きて憧れる先輩方と練習ができる、それがとても楽しかった。
夏休みが開けて、1・2年生とやる気のある中学3年生で遠征に行くことに。
行く時の船のことだ。俺は初遠征で見た夕日が忘れられなくて、甲板へ出て見に行った。そしたら素晴らしい世界になっていた。天気が俺を祝福されているかのように見えた。
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その日以降、俺は夕日が好きになった。
遠征ではリリーフサーバーで練習試合初得点を上げた。めちゃくちゃ嬉しかったのを今でも覚えている。帰ってきてから、「サーブとことん強化しよう」という気持ちになった。
高校1年生~秋~
サーブをとことん強化してきていた秋。いよいよ春高も近くなってきた。10月に入ってから2度の遠征。福井工大、岡谷工業での練習試合だ。
初めて「全国」というものを肌で感じた。一つ一つのプレーの質、かけている思いがとても違うなとコートの外からカメラの守りをしながら見ていた。このくらい強くならないと全国には行けない、そんなことを知った瞬間だった。
練習試合以降もとことん強化し続けた。憧れの先輩にサーブを打ち続け、自分の自信をあげることが出来てきた。
10/31、憧れの先輩方と挑む最初で最後の大会。春高県予選決勝トーナメントが始まった。初戦の相手は難なく倒したが、準決勝で苦しい戦いを強いられることになった。しかし、エースが奮起し、フルセットの末見事勝利。2年連続の決勝を決めた。
試合が終わってから、センターコートが設営された。明日このセンターコートで試合があるんだ、今度はフロアで見るんだ…、そこに先輩方は立つのか…と思うとすごい先輩方と過ごしたんだなと思っていた。
翌日、決勝戦が行われた。
全国へ絶対行くんだという強い思いでプレーしていた。俺はベンチから全力で応援した。気迫と全ての思いが乗ったプレーは俺の心に凄く刻み込まれた。
だが、1歩及ばず負けてしまった。
この時俺は思わず涙が出てしまった。だが、ここで泣くのはおかしいなと思い、すぐに止めた。目の前で全国の切符を手にした相手を見るのはとても悔しかった。「こうしてれば勝てたのかも、」「俺があの時声をかけていれば…」とたくさんの「たられば」が思いついてしまった。
その日の帰り、俺は車の中でも「たられば」を思っていた。けど、それは違うな、と心のどこかで気づいた。
もう一度全国へ出る。その為にも「たられば」を言っている暇は無い。と。
そのためにできることはなんだろう…。
1つしかない。
行動するしか、未来は変えられない。
そう思った俺はすぐGoogle翻訳を開いた。日本語のままだとダサいと思ったからだ。すぐ打ち込んだ。
「『もし』は言わない、行動を起こせ。」
それを打ち込んだ。当時のGoogle翻訳はこう答えた。
「Don't be "if",take action.」
後に今の座右の銘「Never say "if",take action.」になる言葉の原点だ。その日から俺は「たられば」を無くすための行動を積極的に行っていった。
-エピローグ
遂に軸にすべき言葉が見つかった。
俺の軸はバレーにあるんだ、ということに気づけた瞬間でもあった。
この言葉を胸に刻み、俺はさらに進化し、本物の若獅子になるために行動をしていくのであった…