ある日の日記よりー「日本語に主語はいらない」
日本語に主語はいらない。
私がこの事実に出逢ったのは、一冊の新書だった。
辰野和男『文章のみがき方』(岩波新書)
祖父の膨大な蔵書の山の中からタイトルに惹かれ手に取ったその本は、今までの自分の作文意識を大きく覆した。
美辞麗句で飾ることや巧妙な喩えをしてみせること、それ以前に文章というのは簡潔であることが重要だった。
伝えんとする情報が最短距離で読者に届く文章。そのために削るべきは重複表現やくどい言い回しももちろんだが、和文の最大の特徴は「主語の省略」が可能なことだった。そんなことをしても破綻しないどころか文章がより洗練され美しくなる可能性を持った言語、それが日本語である。
そんなことを思ったのがちょうど半年前。先週、母から一件のメールが届いた。亡き祖父の日記データが復元できたというのだ。
私は、祖父と同居していたわけでもなければ書いた文章をまともに読んだこともない。そもそも高校に入学して間も無い頃に亡くなってしまったのだ、私の中にある祖父との記憶といえば、部屋を訪れると必ず呉れる海苔巻き煎餅の味や、呼吸と同じ頻度で吸っていたhi-lightの匂いくらいのものだった。
今こうして国語辞典という書物に惹かれ、ことばや文章を追いかける人生を選ぼうという時、もっともそばにいて欲しいと願った祖父は、墓地よりもはるかに近くで、大好きなone cupや Hi-lightを片手に鼻歌を歌いながら佇んでいるのかもしれない。