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#7 髄膜炎で苦しんだ彼女の2ヶ月間

今回は時間をかけて2話に渡って
僕ら二人のターニングポイントを綴ろうかと思います。

長文ですが、
何卒お付き合いくださいませ。

彼女と知り合ってから2年がたちました。
この2年間はとても楽しく、
きっとこれからも楽しいんだろうなって
惚気ですが感じています。

でもそんな2年間の中で僕と彼女は、
二人の生き方が大きく変わる出来事がありました。
それが、タイトルの通り、
「彼女が髄膜炎で苦しんだ2ヶ月間」です。

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僕と彼女はとあるラジオ配信アプリで出会いました。
僕も彼女も配信者でありリスナーだったのです。

そこでお互いに惹かれあい、
「なんやかんや」あって、今は二人で同棲しています。

前からお話ししていますように、
同棲には目的がありました。

彼女はどう考えているか分かりませんが、
僕は「2人でやりたいことをやる。」
これが大きな目的です。

同棲が始まって、僕はすぐ転職をしました。
これも1つのターニングポイントかも知れませんが、
彼女と暮らしていくのに今の稼ぎではまずいと思い、
転職をし、県境をまたぎ、引越しをして
マンションではなく平家の借家を契約しました。

とても楽しい毎日が続いていました。
引越したあと、彼女もリアルでラジオパーソナリティになるため
コミュニティラジオでアシスタントを始めました。

そして2人が生活に慣れ始める頃、
彼女のラジオ局でいただいた
地元サッカーチームの観戦チケットでサッカー観戦に出かけました。

その時期は、秋の真っ只中で肌寒いやら暑いやら、
気候が変わりやすい季節でした。

彼女はすこし薄着でした。
僕も少し寒さを我慢するぐらいの服装でした。

雨、晴れ、曇り全ての天気を繰り返すように
スタジアムに入る前から気候はある意味で荒れておりました。
スタジアムと言っても地方の陸上競技場みたいなもので、
屋根はなく、雨が降れば当たりますし、風が吹けば野ざらしです。

そして、試合観戦。
終始盛りがる箇所ではしっかり盛り上がっていたのですが、
終盤周辺、彼女が「寒い」と言い始めたのです。

正直言いますと、僕は我慢出来る体質ですから、
彼女の寒さが分かりませんでした。

後々、車中でのケンカで「震えるほど、寒かった」と話しており、
僕は「そんなに?!」と驚きを隠せませんでした。

ここは、男女の差が出るところかもしれません。
比較的、男性のほうが体温が高いものです。
寒さには強いのかもしれません。
(僕が雪国生まれというのもあるでしょうが)

そしてシャトルバスで駐車場まで向かい、
車で自宅まで帰ります。

車内での会話は覚えてませんが、
家に着き車を停める前からケンカをしているのを覚えています。

ケンカの内容は

「私は寒いのになぜそれを気遣いすぐ帰ろうとしなかったのか」
VS
「僕はサッカーが好きだから、ホーム最終戦だし
フィールドイベントも見たかったと、我慢して帰ったんだ、
それをわかってほしい」

でした。今考えても、どっちもどっちと思ってしまう自分がいますが、
やはり、彼女の異変に気付いてこそパートナーの務め。
自分に非があるのも感じていました。

次の日、彼女は朝早くラジオの取材で出勤し、午前中には帰る予定でした。
しかし、取材の内容は散々なものだったらしくストレスを抱えていました。
僕は送り迎えに行ったのですが、
帰りの車中、愚痴をこぼしながら
彼女は頭がいたい、体調が悪いと言いだしました。

「きっと昨日の寒暖差で風邪をこじらせたんだ」

二人ともそう思っていました。

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案の定、次の日は高熱を出しました。
風邪薬と飲み物、冷えピタ。
二日もすれば治ると、僕は会社に出社していました。

しかし、一向に熱は下がらず、
むしろ4日間かけて熱は上昇するばかり、
ご飯も食べては吐いてしまうような状態でした。

下の写真はずっと抱えてた嘔吐用の桶です。
(我が家ではゲロリン)

僕のターニングポイント
社会不適合?な考え方。

僕は発熱後3日目。
普通に出社しようと考えていましたが、
一人で何も出来ない彼女を置いて背を向けることは
僕には出来ませんでした。

両親にも、会社にも相談しましたが、
「出社しろ」と言われました。

「目の前に苦しんでいる大切な人がいるのに、出社しろってなんなん?」
僕は初めて、社会の考え方に違和感を感じました。

今も考える時がありますが、
この日本社会の中で最もと言っていいほど
嫌いな風潮ですね。

働くこと=お金を稼ぐこと、この概念は僕は嫌いです。
当たり前のこととされてますが本当に不愉快です。

「彼女が治った時にちゃんとお金があるように頑張らないとね」

わかります。わかりますよ。
でも、一人で何も出来ず病院に行くことも、ご飯を食べることも出来ない。
メンタルも参っているような大切な人を置いて入られますか?
そのままにしてたら死んでしまうかもしれないぐらい考えてました。

結局一週間。僕は、お休みをいただきました。
正しい判断だったと今では思っています。

支えになる人間が近くにいることは大切なことです。
助け合うことが大事だと教わってきました。

ちなみに僕は、働くこと=夢を叶えることの助走、と考えています。
お金を稼ぐことだけを考えるなら、アルバイトでも出来ますから。

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そんな社会の不味さに気づきながら彼女を看病していました。
発熱から5日すぎ、さすがに自宅近くの診療所に連れて行きました。

そこでは、インフルエンザテスト、血液検査を行いました。
彼女は病院が嫌いで、痛いことが嫌いです。
血液検査も血管が細く何度も刺され見ていられませんでした。

結局、原因はわからずじまい。
入院を勧められましたが、そんなお金はありませんでした。

彼女は熱は上がっては解熱剤で下げを繰り返していました。
毎回、解熱剤を投与した時の彼女はいつも通りで、
笑顔で僕に話しかけてくれるのです。

発熱から7日たった頃、お医者様に言われ、
一度、夜に解熱剤を投与せず熱を上げきるようにして様子を
見ようと二人で決めました。
その日は、彼女のお母様も、はるばる家に来てもらった日で、
解熱剤が効いている時は僕がギターを弾き二人で歌を歌える程でした。
その時は、僕も彼女も二人して泣いていました。

夜中、熱は40度を超えていました。
解熱剤は投与せずひたすら我慢の時間でした。
その時のことは鮮明に覚えています。

ベットは暑いと下にひいた布団でうずくまり、もがき苦しむ彼女。
正座でそれを見守るお母様。
ベットに座って見守る自分のアングル。
次第に彼女の苦しみ方は増していき、
心と脳と口がストレートにフィルターなし言葉を発していました。

「死ぬ。死んでまう。見殺しにするんや、嫌い、嫌い。」
「帰りたい。お母さん帰りたい。ここはダメ。帰りたい。」
「助けてください。許して、ごめんなさい。嫌われる。」

いろんな感情がひしめき合っていたんだと思います。
僕も薬を握りしめ、気持ちを押し殺し、

「ごめん。ごめんよ、我慢して。」

結局。見るに見かねて、解熱剤を投与しました。

そして、次の日、8日目の夜、救急車を呼びました。
原因は暗闇の中、僕が声をかけると、
「誰!誰?!怖い怖い。(僕の名前)!(僕の名前)!」
と叫んだのです。

そこからは流石に入院することになり、
初めて彼女のいない家での夜を過ごしました。

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次の日、入院セットを持って病室に行き、
主治医から話を聞いたところ、
髄膜炎じゃないかと診断されました。

髄膜炎…侵襲性髄膜炎菌感染症(IMD)の発症初期は、風邪に似た症状のため、診断が難しく、早期に適切な治療を受けにくい病気です。髄膜炎菌は、健康な人の鼻やのどの奥にも存在することがありますが、体力が低下している時や、免疫系の疾患などがある場合には、血液や髄液に菌が侵入し、その結果、菌血症や敗血症、髄膜炎になることがあります※1。
発症後12時間以内は発熱、頭痛、吐き気など風邪のような症状ですが、発症後13〜20時間ごろには皮下出血や発疹が出たり、息が苦しくなったり、光を異常にまぶしく感じるなど、普段とは違った症状が起こりはじめます。そのまま放っておくと意識がなくなったり、けいれんを起こし、命に関わる状態になってしまうこともあります。
引用 : http://www.imd-vaccine.jp/symptoms/

さらには、ストレスで排尿が自ら出来ない状態でもありました。
救急車で運ばれた彼女の膀胱には700mLの尿が溜まっていたそうです。
本来200mLでもすごい方とお医者様から聞いて、
また彼女の苦しさがわかってなかったんだと自分に失望しました。

入院してからはゆっくりでもありますが
1ヶ月半かけて回復していきました。
僕も会社に行きながら、必ず終業後にはお見舞いに毎日行きました。

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今回はここまで
入院中の話含め彼女のターニングポイントはまた次回。

では、また✋

グラフィックデザイナー 彼女との毎日を掲載 世界相手のプロジェクト考案中。