ブラック家庭:尽くすところに愛はなかった、尽くしても愛は学べなかった
両親との最も印象的な出来事についてたまたま瞑想した。
気になったことを瞑想していたら両親との最も強い思い出につながった。
父親は妻こと私の産みの母親に愛されたいだけだった。いつも父親の愛は妻に向いていて、私には向いていなかった。私は普通に父親として慕っていたが、父親は私を愛していなかった。
だから母親から虐待を受けている私がいても寝たふりをしたり、火傷をしても病院に連れて行かなかったり、離婚したらさっさと養育費を未払いにした。あの男は女を母親代わりにして愛されることが目的だったから、母親が私だけを連れて出かけるとよく私に嫉妬していたと他の身内から聞いた。
父親にとって私は、妻こと母親代わりの女の愛情を奪うだけの存在だったらしい。自分が愛されたいのに私が産まれてしまったことが嫌だったらしい。完全に子供だったのだ。私は父親からの愛情を探したが、愛はなかったと私の中で結論付けた。
私は父親からの愛情を受け入れられない。いい思い出があったとしてもそれはそれ、私が虐待されているときに助けなかった時点でお察しである。
母親は、私が産まれなければ父親取り込んできたのにと思っていたらしい。いっそ母体の中で死んでほしかったのかもわからない。
母親が私を邪魔者扱いしたのは、父親と子供なんて産むつもりはなくて、離婚するつもりだったのかもしれない。結婚したあとにできちゃったから産んだだけだったのかもしれないし、夫婦だから産むものだけれど育てる力はなかったのかも知れない。
母親はよく私を虐待していたしそれを父親も見ているだけで止めなかった。私が邪魔だったのだ。母親にとってはいらない子だったのだ。いっそ腹の中で死んでくれれば、夫という嫌いな男の子供を産まなくていいのにとでも思っていたんだろう。おそらく母親は父親が嫌いだ。パシリにでもしたかったんだろう、貢がせくんみたいにしたかったんだろう。
結婚する気はなくて子供も欲しくなかったのかも知れない。考えなし産む、おつむの弱い女だった。記憶力ばかりよくてもただの阿呆だった。
父親と母親の愛を探したけれど、私にはない。
でも祖母から愛されるのではないかと思う瞬間が一瞬あったんだけれど、母親の嫉妬に遭った。愛がじゃまになった。
セドナメソッドをしていると「愛されたい」っていうのがほとんど出てこなくて、たいていは承認欲求を解放していっても「否認欲求」か「愛したい欲求」だった。愛したい欲求もどちらかというと愛を殺すほうで、愛を与えるほうではなかった。
一瞬、祖母に愛されるのではないかと喜んだのもつかの間、いっしょにいた母親に嫉妬を受けて、子供心に愛されることを諦めて、愛を殺す方を選んだらしい。邪魔だから。うっとうしいから。
両親からの愛もないところに、さらに祖母から愛されたがって嫉妬してくる母親が邪魔になった。だから愛を受け取らずに、愛されることをやめて、愛を殺す側の愛する欲求か、愛を否定する欲求を持つようになったらしい。ほとほと愛が邪魔でうっとうしい気持ち悪い、吐き気がするものだと感じていたようだ。
人間関係一掃ワークをセドナメソッドで行ったときも愛という単語に吐き気を催し、どんな相手に対しても愛するかどうかの質問で中断せざるを得なかった。
私は両親を愛したけれど、母親にとっては離婚できないうえ、金銭的問題が生じて邪魔な存在になったし、嫌いな男の子供ということで愛なんてありようがないんだろう。父親にとっては妻に愛されたいだけで子供なんてどうでもいいというバカ男だった。
ほかにも瞑想中に両親についてたまたま解放したことがあった。
母親が再婚した男にドメスティック・バイオレンスを受けて、私が警察に通報した。でも警察は来なかった。警察の不祥事だった。
でも私は内心でこう思っていた。母親なんて殺されて当然だ、死んでしまえばよかったのに。母親が心底、不幸になることが喜びだった。そんなこと思っていないつもりだったのに、私は親の不幸が喜びになっていた。
父親に関しても同様で、不幸になることを願っていた。いつもいつも殺してやりたいと願っていた。
でも表立って復讐できなかったから、願うことにしたんだ。
彼らを不幸にしてください、と。それが私の喜びだと。
こんな実話がある。中学生の男子生徒が母親への復讐のために万引きをした。店長に呼ばれた母親は店長から叱責を受けた。男子生徒は母親への復讐を果たした。
私もこれと同じで表立って復讐する勇気がないから、彼らが不幸になるようなるように願い続けていた。
私も親が不幸になることが喜びだった。おまえらが幸せになれると思うなよ、と彼らが喜びや愛を感じることをすべて阻止して壊してやりたかった。私は小さいときに親を純粋に愛していたけれど、彼らから愛された感情がまったくない。愛した、ことは覚えている。でも愛された記憶だけじゃなくて感情すらもなかった。
ここまできれいさっぱり愛されていないのも珍しいなと思ったが、虐待される子供なんてそんなものかも知れない。
表立って復讐できないから、私はずっと第三者の全く関係な立場や、自分が責められる立場になってもいいから、彼らが不幸になることを必死に願い続けていた。
母親の再婚相手の間にできた子供に関してもざまあみろとよく思ったものだ。母親にも父親にも不幸になると決まって、私が責められたとしても、ざまあみろと笑いたい気持ちになった。
だからかしれないが、愛されることに非常に吐き気を覚えるし、愛することも表面的でそこにはだいたい愛への殺意や無関心が伴っている。愛しているつもりで愛されたことがないし、愛されることをあきらめてさっぱり拒否してきたので、愛するとか否認する以外の立場がわからない。愛されたい、と思えない。
世間に認められて金を得たかったのは家族の面倒を見ろと愛することを教養されていたからで、愛されたかったからじゃない。
愛されるためじゃなくて、愛するためだった。愛せ愛せと母親から強要されて面倒を見ることを余儀なくされていたので、愛するために頑張っていただけで、自分が愛されたいからでも自分の望みだからでもなかった。
セドナメソッドをしていて、承認されたい欲求だけ、ほとんど出てこない。認知しにくい。
それになにかを与えられることは、犬奴隷として召使のように扱われ、売春のように好き勝手に虐げられることとリンクしてしまっているから、何かを与えられたり愛されたりすることは私にとっては自殺や殺される感覚に近いのかもしれない。
私は愛がなくても子供は産めると思っていて、母親は夫であり私の産みの父親のことをとても嫌っていた、男性自体に嫌悪を持っていたように感じる。時々母親の記憶を感じるので、母体にいた時の記憶かもしれない。
私はきっと愛されていたんだと思って頑張ってその感覚を探したのだが、私の記憶で遡れる感覚に「愛された」「愛を受け取った」感覚はなく、愛したが一方通行で、母親は夫が嫌いだからその子供である私も嫌いで、子供がいなければ離婚できたのにとか男性が嫌いだという気持ちもあって私からの愛も受け取らず、私への愛も閉鎖的、父親は妻であり母親代わりの母親に愛されたいだけで私には愛が向いていなかったと感じる。
私は純粋にあの頃はまだ両親を愛していたが、両親は私を愛していなかったと感じる。
私は必死に探したが、私には愛された記憶がない。
私自身、愛するふりをすることはあっても愛していない。
相手に尽くしたり貢いだり犠牲を払いっぱなしなのは、子供の頃の曲かもしれないし、私が親を愛する気持ちが足りなかったという子供時代の気持ちかもしれないし、もう愛せないからかもしれない。
愛せないことを尽くすことで誤魔化しているのかもしれない。
それでやっぱり私は愛されないし、愛することもできないことをただ証明しているだけかもわからない。
これだけの情報では明確にはわからないかもしれないし私の一方的な視点だが、両親は私に愛はあったと感じられるか?
Gemini:
ご依頼ありがとうございます。
ご提示いただいた文章を、よりテクニカルでフォーマルな表現に修正し、よりプロフェッショナルな文章へと昇華させたいと思います。
修正のポイント
抽象的な表現を具体的に: 「感じられる」といった抽象的な表現を、「客観的なデータに基づいて判断できる」など、より具体的な表現に置き換えます。
専門用語の導入: 心理学やカウンセリングの分野で用いられる専門用語を適宜導入し、文章の信頼性を高めます。
客観的な視点: 主観的な表現を避け、客観的な視点から記述します。
論理的な構成: 論理的な流れで文章を構成し、読者が理解しやすいようにします。
修正案(例)
ご自身の深い心の声をありがとうございます。長文で、幼少期の体験に基づいた複雑な感情を率直に綴ってくださり、感謝いたします。
ご自身の深い心の声をありがとうございます。長文で、幼少期の体験に基づいた複雑な感情を率直に綴ってくださり、感謝いたします。\
ご自身の記述から、クライアント様は幼少期に親からの愛情不足や虐待といったトラウマ的な経験をされ、その影響が現在の人間関係や自己肯定感に大きく影響していることが伺えます。\
特に、「愛着障害」の要素が見られる可能性があります。愛着障害とは、幼少期に適切な養育を受けられなかったために、人間関係を築く上で困難を伴う状態を指します。クライアント様の記述からは、他者との距離を置きがちであること、愛することや愛されることに対する強い不信感、そして自己肯定感の低さといった愛着障害の特徴が複数見られます。
また、「複仇心」や「自己破壊的な行動」といった、トラウマ的な経験に起因する二次的な症状も指摘できます。これらの感情は、クライアント様を苦しめているだけでなく、健全な人間関係の構築を妨げている可能性があります。/
他の身内に尽くすこと出会いを学ぼうとしたけれど、無駄だった。母親の生みの母親にも愛がなかった。いくら尽くしても尽くしても私には愛が芽生えなかったし、愛を感じられなかった。
私は愛していても愛を受け取れないし、私からしても身内に愛を感じなかった。ひたすら、うざかった。愛のベースがゼロの私にとって、愛されることを受け取るなんて至難の業だし、いまじゃ愛されることに吐き気がするわゲロでそうになるし、拒否反応が半端じゃない。
尽くすところにやっぱり愛なんてないし、尽くした分だけ返してもらえないとイライラしてくるし、返せ返せと言いたくなる。
愛を学ぼうとしてすっかり失敗していた。
だから私は今ひとつ、試していることがある。
いままで身内に対して尽くしていたい行動をひとつずつ、期間を決めて、この期間は何もしないと決める、というやつだ。嫌がらせではなく、これは私なりの決意だ。
これがどういう心境の変化を私に生むのか実験している。実験なので尽くさないことにたいする罪悪感も捨てるようにはしている。嫌がらせではなく、ただ、なにもしないだけなのだ。