オラクル:霊能力者とひと悶着あって、イエス・キリストをその人がお父上言いまくっていた娘気取りの自分にとても甘いと感じた女。イエス・キリストも甘い父親に感じて、この娘気取りをかばった気がした。
この娘気取りにこの男を父親だと思えと言われたが冗談じゃじゃない。私にさわるな。私に父親はいない。
いまのところなにもわかっていない。
わかったようでつかめていない。
月光:努力、パワー、希望の光。
これが原因なんだから、今の私にはこれが欠如しているってことだろうか。
シャボン玉:肩の力を抜いて、とかだろうか。
聖母マリア:知らん。
元暴力団だという男性のWEBインタビューを読んでからなにか引っかかった。
私はどうも厳しくされると猛烈な反抗心が出てくる。かみつきたくなるような、対等に張り合おうとするような、なにかトリガーがあったことをセドナメソッド行き詰まり解放で発見する。
厳しくされると厳しくし返したくなるのだ。
分離欲求を認めると、私を殴りかかってくる映像が見えた。男だった。
とっさにびっくりして対抗しなければ!と思ったのを立ち止まる。
そうだ、びっくりして逃げて警察に行こうと思い直す。
このやり返さなければいけない反応、感情から私は自由になっていいたのだ。
私は私を許していいのだ。この反応から自由になっていいのだ。
びっくりして冷静に相手の攻撃を避けてすたこら逃げて、交番にでも行ったほうがいいな。なんて平和な解決策だろう。
びっくりはいいんだ、恐れたり反撃する反応が扁桃体なのだ。
びっくりしてすぐに冷静に戻れれば、暴力は当たらないし逃げられる。
はあ、もう暴力や男性と戦わなくていいのだ。逃げていいのだ。暴力は当たらなければなんてことはない。逃げてしまえばこっちのものだ。もう対抗しなくていいのだ。
でも。
ということは。
イエス・キリストに父親みたいに幼児期かたら透けてもらえず、放置されていた。
霊能力者の女は幼少期から願えばお金をもらえていたと言っていた。助けてもらえていたらしい。私にはそんな実感がない。
父親とイエス・キリストのネグレクト系、見捨て、放置系の暴力が被ったかな。これはこれで暴力であり厳しさだし、父親はその後、銭ゲバ女の言いなりになって養育費を止めてきたことがある。母親からの虐待からも守ってくれないから私は一人でなんとか生き抜いてきた。こいつとは、父親とは精神的な場数がちがうんだ。
そういう意味から、甘ちゃんのくせに私を見捨てていい気になって厳しさを与えた放置系の親父と、イエス・キリストはこの女を救っておきながら、私のことは放置して、さらに今回の件でもあの女をかばったように感じたのだろうな。
実際、かなり酷似している状況だものな。被ってもしょうがない。
しかも、父親の銭ゲバ女同様に軽率さが仇になった女だから、父親の新嫁と霊能力者の女が被ったかな。
父親に厳しくされたことはないと思っていたが、火傷放置に暴力虐待放置に養育費差し止めに謝罪のない、再会時のふてぶてしい態度。間接的にというのか、暴力こそ受けていないが支援救助をしなかった点で身勝手な厳しさを与えられていたことに気づく。
私はまだ父親の葬儀でこいつの棺桶を新しい嫁とその間に産まれた息子の前で蹴飛ばす夢を抱いている。
私もこの男に人生の厳しさ、自身のやった仕打ちの結果という厳しさを味あわせてやろうと思っていたんだ。死者だろうが容赦なくムチを打つぞ。そういう決意で生きてきた。
生前の行いが死後に返ってくることを”わからせて”やろうと思って。
それも人生の厳しさってもんだろ?あまったれクソ親父。てめえからもらった”厳しさ”ってもんを葬儀の場でてめえに返してやろうと思ったんだよ。
私はそういう意味の”厳しさ”を与えてきた親父を怨んでいたんだな。
お父さんだなんて5歳の頃から一度も口に出したことがないわ。
母親の家系からだけ厳しさを受けたと思っていたら、まんまと親父の家系からも醜悪な”厳しさ”を受けていたんだな。だから親を見ているようで甘ったれクソ野郎が嫌いだったのかもな。いつまでも母ちゃんのおっぱい好いたがるような乳臭い依存症が嫌だったのかもな。
誰がイエス・キリストをてめえの父親だなんて言うかよ。甘ったれは気持ち悪くてしょうがない。親を生きていく支えや杖みたいにするやつがえらそうに説教垂れるから雷が落ちるんだよ。親を大切にすることは否定しないけれどてめえの片足みたいに利用するやつも私をやっつけるために使ってくるやつも嫌いだし、
でも月光カードは雷光カードじゃなくて月だけれどな。
■月、月光、一匹狼、8…。
月光カードの夜を見ていると、狼が出てくるようだ。
狼と言えば、タロットカードの「月」と被るカードだったな、月光カードは。
そんな月の出る夜の下でも私は一人なのだな。狼は一匹なのだな。
でもだからこそ、見える世界があるし見える視点がある。
彼女たちのように甘やかされて守られてきた人達にはわからない「孤高の狼の世界」が私にも見えるのだな。夜目が効くのだ。リアルでは難しいが。
シャボン玉は、例えばペンタクル2だろうか。
ずっと夜の世界で一人で気を張ってきたのかもしれない。
ジャグラーは不安定さもあるが、好い加減とか、均衡やバランスがいい、臨機応変、気楽な、つかみ所がない、その日暮らし、暗く考えない、明るい、お調子者、8の無限大。8か…。
深刻になって俯いているよりはシャボン玉を見て上をみている方がマシか。
聖母マリアは未だによく読めん。女性性とか母性とか自己受容とかだろうか。
■数秘術の謎へ近づいていく
オラクル:霊能力者とひと悶着あって、イエス・キリストをその人がお父上言いまくっていた娘気取りの自分にとても甘いと感じた女。
イエス・キリストも甘い父親に感じて、この娘気取りをかばった気がした。
この娘気取りにこの男を父親だと思えと言われたが冗談じゃじゃない。私にさわるな。私に父親はいない。
このような質問をしているのだから、
月光:厳しい世界、孤独、孤高、一人の力で生き抜くこと、集団や甘えから離れた環境、遠くに民家の明かりが見えても近づかない
シャボン玉:シャボン玉のように丸く柔らかくなる、柔軟性を回復する、緊張感を解く、自分への厳しさを緩める
聖母マリア:親というものへの強い拒否感がある、子供扱いされたくもない
親に甘えまいといする気持ちが自分への厳しさに繋がっているらしい
甘えなくてもいいけれど、頼ってもいいのか
■シャボン玉カードを「創り出す要素」としてみなす
月光:一匹狼、孤高、孤独、自力主義、男性性(独力独歩、我が道を行く、頼りたがらない、自分のやることが正しいと貫く、一人でやり抜こうとする)が強すぎる
シャボン玉:思い出すのではなく、私にはない「童心」「一瞬を楽しむ」「臨機応変」「男性性と女性性のバランス(能動性と受容性の均衡)」などを新しく創る、生み出す
実際シャボン玉っていうのは、シャボン玉液を作ってからシャボン玉を作っている
そこらへんでシャボン玉が出てきているわけでもないし宙に自然にうているわけでもないので、これは一種の「創造」「新生」「誕生」とみなせる
聖母マリア:女性性(自己受容、自己愛、受け取ること)の象徴かな…私には圧倒的に女性性が足りないらしい
すぐ自分でなんとかしようとするし、自分でなんとかしなければと思うから自分にも他人にも甘えを許さないし、私に至っては頼ることも嫌う傾向が強く、何かを受け取ることは同情や哀れみに思えていた、女性性の一つである柔軟性や臨機応変の力や協調性が欠けていた
結果を出すことばかり(男性性)で、生きて、食って、働いて、死ぬこと以外考えられなかった
まだこの「人生のすべてが労働」の根が残っていた
気がつくと事故不満に陥って欠如に目がいき、体調不良よりも事故不満足のこの現状を変えようとしてしまっていた
このまま金を稼げず働けないのなら病気になって死んでしまえば働かなくて済むと考えていた
シャボン玉カードにしても、私には「ないもの(欠如)」であって思い出せるものでもなかった
視点を変えて作り出すほうにシフトしてみた
■現代数秘術とマヤ暦から導き出す「シャボン玉」と「聖母マリア」の要素
数秘術では、ライフレッスンナンバーがコアナンバーにあったら避けられない、取り組んで超える試練だが、コアナンバーにないときは、諦める以外に道がないので手放すことが試練だ。
逆にインテンシティナンバーの場合は、コアナンバーある場合は「新しく創る(土台はすでにあるが、ゼロに近い喪失状態)」で、コアナンバーにない場合は逆になくてもいいんだって受け入れることなんだろうか。
私はインテンシティナンバーが3で、ソウルナンバーやバースデイが3だが、今まで行ったとおりに「シャボン玉カード」の示す要素が明らかに欠如している。
その場合、土台があるから創造すると解釈するのが自然な流れだと思った。
捨ててきた、必要ないと思っていたものがやっぱり必要なんだと気づくことになった。
ただ、コアナンバーにない場合はおそらく、なければいけないのか?といらないものを拾おうとする、土台がないのに造ったり演じたりしてしまうと思われるので、それがなくてもいいんだと受け入れることになるんだろうと思ったのだ。ないものはないでいいじゃないか、と。
インテンシティナンバーがコアにあれば、やっぱり必要だったと気づき、コアになければ、やっぱりいらなかった、と気づく必要が訪れると考察した。
■インテンシティナンバーのコアナンバーにあるなしの作用
おそらくインテンシティナンバーが土台であるコアナンバーにないと「ないのに無理をして疲弊する」可能性が示唆されている。
らしくないことを自分らしさだと思うことに無理がたたって、それをあえて捨てることで、自分らしさ、自然な感じがより発揮できると思われる。
ほんとうはないものをまわりにそう求められているから〜とか、自分はこういう人間だと思うから〜といった、何らかの我慢や思い込みから無理をするんだろうが、けっきょく「いらね」と捨てる機会がかならず訪れると推測する。
着たくもない色の服を着ているようなものだから、いずれ脱いで好きな色を着たほうが楽しいと気づくんだろう。
反対にコアナンバーの土台にあるなら、やっぱりこっちの色が好きだなあ、やっぱりこの色が必要なんだなあと気づく機会がけっきょく訪れる。
捨てたけれど、必要性や重要性に気づく機会がやってくるんだ。そうじゃないともうにっちもさっちもいかねえよ!ってな具合に追い詰められて。
■旧姓と現姓の連動
マチュリティナンバー2が旧姓にあって、現姓でインテンシティナンバーに2があるものの、現姓の土台ノコアナンバーに2がない場合って、どうなるんだろう?
旧姓の影響が切るとは思えない。なぜなら、インテンシティナンバー3は旧姓のナンバーだから。それでも今現在、まさにインテンシティナンバー3が急遽、必要になっている。
しかし、旧姓に2があって、現姓に2がないのにインテンシティナンバーだったら、手放すのか?それとも必要なのか?
現姓のためにどうしても旧姓の2が必要だったことは理解している。
もともと現姓になる宿命にあったので必然だった。
けれど、現姓に至るために2が必要だったのなら、もう2はいいのか?
現姓「だけ」を見たらコアナンバーにはないから、インテンシティナンバーだけで見れば「2」はいままで必要だったけれど、もういいんだと手放すほうが自然な流れになるが。
いやまて。たしかに現姓「の」コアナンバーにはないのだが、旧姓のマチュリティナンバー2の影響がごっそりなくなるとも思えない。
その2にまつわる、受容や協調性や調和というのが、自分と自分との精神面のうえでものすごく重要だったんだ。
今でも重要だけれど本当に最初は受け入れられなくて本当に苦労したんだ。
しかも、スピリットな存在に「受け入れることが課題ですよ」とまで言われているんだ!
やっぱり現姓だ旧姓だとあまり分けてみないほうがいいこともあるな。もともとわたしは現姓にもなる宿命だったことを数秘術と経験を調べて照合して整合性も取って、マヤ暦まで使って「わかっている」んだから、私の場合は旧姓や現姓の違いがないらしい。
マヤ暦で言えば、表KINと裏KIN、どちらもの要素が現姓と旧姓に共通している。
どちらかといえば表KINが現姓で、裏KIN旧姓。
しかし、表KINの要素は旧姓にもある。裏KIN要素は現姓にもある。
このように一概に区別できない理由があり、そもそも宿命としてどちらの姓にもなることが「わかっていた」ため、現姓のために旧姓の影響があるんだとすれば、マヤ暦の表KINと裏KINも当然、連携していて連動している動きも読める。
なんでわかっていたかといえば、マヤ暦を家族中で見てみるとその流れが見えてきたから。
やっぱり私の場合のインテンシティナンバーは必要なのか。
旧姓で徹底的にやった2を、こんどは現姓で手放していて、旧姓では必要になるからやっぱり現姓になっても取り戻さないといけないんだな。
旧姓(M2)→現姓(IT2で喪失)→必要だから取り戻せ(現姓IT2)
加えて、旧姓(新生M2)とかかな。
だって現姓にはないけれど旧姓にはあって、このふたつの姓が境界線なく連動しているのなら、現姓のコアナンバーにないけれど旧姓には2があるので取り戻す必要性が現姓になっても出てくるんだ。
まあ、宿命的に強制変動した名前だから宿命と読んで連動している、境界線がないと見ていいんだろう。結婚は自由性があるからそこまでの効力はないんだろう。が、宿命的な結婚の場合は可能性があるかもな。