人生のコーチは「イカゲーム」の女優さん。
すこし小声で言うけれど、私はいま働いていない。先月末、新卒で入ったところを退社した。
仕事を辞めると上司に伝えてから、転職とか第二新卒とか、そういう言葉をやたらと見かけるようになった。
人間は、自分の関係のある情報は、特に目に入りやすいという。この前、原倫子さんという方が描いたイラストを購入したときのこと。額縁がほしくなって、表参道のおしゃれな雑貨屋さんでもA4のフレームがないか見渡したし、Instagramでも額縁らしく物体が写った瞬間、まじまじ見るようになった。ここ最近、世の中に額縁増えた?という錯覚に陥る。でも総量が増えたのではなく、世界への見方がちょっと変わっただけなのだ。
わたしは3日前、カフェで履歴書を書いたあと、本屋に立ち寄った。自動ドアが開かれ、そのまま真っすぐと進み、エッセイ本の売り場へと向かう。働いている頃のわたしは、もっと奥にあるビジネス本の棚に直行していた。
売り場に着くと、本棚全体がわたしを慰めてくれるような気がした。視界に入ってくる本の帯には「疲れたあなたへ」とか「自分らしさを取り戻す」といった文言が印字されていたからだ。自分を肯定してくれる人が世の中にいると確認して、心底安心した。
その中から2つの本を選び、それを抱えながら雑誌売り場へと到着する。ここはレジに行く前、最後に立ち寄る場所だ。
そうだ、探していた雑誌があったのだ。それは昨年話題になった「イカゲーム」の女優さんが表紙を飾った『VOGUE JAPAN』。
「イカゲーム」は、2021年9月に配信されたNetflixのオリジナルドラマだ。日本の「カイジ」にも似たデスゲームにも関わらず、主人公の着ている緑のジャージや、命がけで行うゲームが「だるまさんがころんだ」などの幼少期に誰もがやったことのある遊びだったりと、アイコニックな演出が世界中でウケにウケた。日本でも10月31日には、緑のジャージや劇中で登場するキャラクターの仮装をした人が、渋谷を闊歩した。
わたしの記憶では、Netflixで配信中の全作品のなかでの閲覧数TOP10に、年が明け頃までずっとランクインをしていた。さらに最近になって、シーズン2の制作が決定したという。
そんなモンスタードラマに出演し、配信開始と同時に”世界的スター”へと登り詰めたのがチョン・ホヨンさんだった。
最初は写真を一通り見て、帰ってしまおうかと思っていたのだが、彼女のインタビューページにあった1文を読んで、やっぱりお金を出すことにした。
まさにキャリアを一度リセットして、次の一歩を踏み出そうとしている自分にキューンと刺さった。何かヒントをもらえそうに思ったのだ。
本屋を後にして、家に帰る。お茶をのんでから、思いついたように袋から雑誌を取り出し、あのページを開いた。
ホヨンさんは「イカゲーム」で、人間不信の脱北者を演じていた。強烈な目力の中に、寂しさが滲む彼女は、セビョク(夜明け)という役名にぴったりだった。ドラマの終盤に差し掛かる頃、わたしは彼女の演技で涙を流した。
こんなにも素晴らしい演技だが、「イカゲーム」が彼女にとっての女優処女作だと、わたしは知っていた。今までモデルとして活躍してきたホヨンさんは、幸運をつかむことができた勝ち組の1人なのだ、そう思っていた。
だがこのインタビューを読むと、彼女がブレイクした本当の理由がわかった。
ホヨンさんは「イカゲーム」が決めるよりずっと前から、演技のレッスンをしていたのだ。演技を習うようになったのは、ほかでもないキャリアが後退したときだった。誰でも聞いたことのあるハイブランドのファッションショーに呼ばれるほど、モデルとしての階段を上りつめた。しかし仕事は段々と減っていき、無職のような状態になってしまった。だが彼女は、そんな不安定な日々のなかでも、自分を磨くことを怠らなかった。演技のほかにも英語やヨガなど、空き時間にはたくさんのレッスンを受けたそうだ。彼女はこの頃を振り返って、こう話す。
「人生で大切なのはキャリアアップした時でなく、キャリアが後退した時。この時期をどう過ごすかがわかれ目になる」。
そうして今、彼女のInstagramには、2,300万人のフォロワーがいるーー。
わたしにとって、このインタビューは慰めではなく、激励だった。そんなコーチのような彼女の雑誌を、机の上に立てかけてみる。
「지켜본다.」
(見てるわよ)
そういう声が聞こえてきそうで、眠い目をこすって参考書を開く。これまでとは違う洋服にかかわる仕事をしてみたいから、わたしはファッションビジネス能力検定試験を受けることにした。
じっとしている暇はなさそうだ。
special thanks(編集):くりたまきさん
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