誰かのために生きるという幻想
誰かのために生きる。
そんなおこがましいことがあるだろうか。
たかだか1人のはたらきで、
人も社会も良くはならない。
どんなに著名な人であっても、
君の人生を良いものに変えられた人はいるだろうか?
変えられたように思っても、それが正解である保証はどこにあるだろうか?
スマートフォンは生活を便利にした。
しかしながら、果たしてその依存性や、
加速度的に上がる文明の進化は、”良い変化”なのであろうか。
パーマカルチャーは持続可能な社会を創るための知恵が結集した文化だ。
とはいえ、その生活様式は人類にとって幸福であるという証明は誰にできるのであろうか。
小さな範囲なら誰かを助けることができる?
では、「君に救われた」と話すあの人にとって
”君に救われなければならなかった理由”はあっただろうか。
君がある人を助けるにあたって、
代替不可能である証明はできるだろうか。
人間は、自己と
拡大した自己のために
利己的に生きることしかできないし、
その範疇を超えることはあまりにおこがましい。
拡大した自己とは、
自身のコミュニティであり、同情・共感の範囲内にいる人や物を差す。
親密な人間と脳活動が類似するように、
自身と他者への思いやりが時に脳の同じ部位を活動させるように、
時に他者や社会は”拡大した自己”とも呼べるような存在となる。
より良くできるとすれば、たかだかその程度、自己の範疇だ。
「誰かのために生きる」ことは不可能だ。
誰かのために生きるという幻想は、早々に諦めなければならない。