こんなぼくがクイズマニアになるまで
「奇跡」と呼ばれた子
生まれたときは、奇跡と呼ばれた。「つ」よくなるように、「か『づ』し」と名付けられた子は、1120gしかなかった。
ぼくは母のおなかのなかに7ヶ月しかいなかった。
居心地が悪かったのだろうか?
田舎の産婦人科でとりあげられたときは、父の手のひらくらいだったという。
1120gの小さな命は、そのまま燃え尽きてしまう寸前だった。
隣町の大きな国立病院に、当時産婦人科医で
小児科医としては日本で3本の指に入るゴッドハンドが、偶然、いた。
母子健康手帳に「仮死」とかかれたぼくは、父の手から
その「ゴッドハンド」にわたされた、という。
すべて聞いている話でしかないが。
心臓を機械で動かし、保育機の中でずっと過ごしたという。
どのような処置が行われたかはわからないが、
「ゴッドハンド」は本当に存在したわけだ。
今ならまだしも、40年以上前に、いわゆる未熟児の半分以下の体重の赤ちゃんなど、聞いたことがぼくはない。
10歳まで生きられない
ぼくは、2500gになるまで保育機の中ですごした。
父や母はあの取り出した日以来ぼくの体に触っていないという。
「ゴッドハンド」はこう言った。
「後遺症が脳に残ってもおかしくありません」
「10歳まで生きられないかもしれない」
それでもいいと、父は言ったそうだ。
ぼくは2500gになり、保育機を出て。
そして、一般病棟にうつった(らしい)。数日後、退院することになった。
今でも、心臓を動かすための機械の跡が、ぼくの左胸にはある。
10歳まで生きた
予想に反して、僕は少なくとも病弱ではあったが、
命にかかわる病気はなく、10歳になった。
「ゴッドハンド」の予想は外れた。
本を読むのが好きな少年だったので、
何かを覚えるのは好きだった。
10歳のとき、妹が生まれた。
元気な女の子だった。
小学校でサッカークラブに入部し、
「いつやめてもよかばい」と言っていた父。
結局小6まで在籍し、父はクラブの会長までやっていた。
僕は右サイドバックと、あと当時取り入れられていた「スイーパー」というポジションを与えられ、最後の試合のPKも最初のキッカーを努めさせてもらえた。
理由は「実はメンタル強そうだから」。
「長戸勇人」と「永田喜彰」
ぼくは、実はあの有名な「長戸、永田、秋利、田川」のボルティモアを見ていない。偶然Youtubeで見ただけだ。
テキスト媒体では「クイズは創造力」で知っていたが、それでも長戸勇人と永田喜彰はレジェンドだ。
行政書士になりTwitterを始めたとき、「とうちゅう」さんという方を見つけた。
profileを見ると、もうあの人しか考えられない。
「冬虫夏草」でニューヨーク行きを決め、FNSで大活躍の永田喜彰さんだ。
飄々とした振る舞いから解答を出すその様子は「笑うクイズマン」。
ぼくにとって、長戸勇人は「スター」、永田喜彰は「レジェンド」なのだ。
喜々としてフォローした。
あとからウルトラ準優勝の大西肇さんや、秋利さんもフォローさせていただいた(秋利さんに至っては相互フォローさせていただいた)。嬉しい限りだ。
クイズが好きになったのは理由はない。
ただ、知らないことを覚えるのが好きなだけだった。
みんな、なぜ「ジョージ・マロリー」を知っているのか。
なぜ「スリジャヤワルダナプラコッテ」を言えるのか。
知らないことに貪欲な、中学生のぼくは、クイズに夢中になり、
中2のときに行われた第11回高校生クイズで3位になる高校に
電車で一時間半かけて通うことになるのだった。
次回
「こんなぼくが歴史コースの大学生になるまで」