(K)not School Days 1
九月一日。
夏が終わったのは暦の上だけで、まだまだ気温が30℃を超える日が続いている。異常気象という言葉にも慣れてしまって、何が異常なのかも分からなくなる昨今だ。
今日は始業式である。
伸びた襟足の髪を短く切ってもらい、規格外に小さい体格に合わせて、洋裁家である叔父の晴三郎が裾を上げたり丈を詰めたりあちこち仕立て直してくれた制服のパンツは、一年経ってもサイズはピッタリだった。しかし半袖シャツの袖は彼の肘まであり、結果服に着られている感は拭えない。
心配する家族たちに見送られて家を出た氷川爽は、7時25分発の通勤快速に乗るため駅までの道を急いでいた。始業式前に職員室に諸々の書類提出をするため、今朝は早め学校に到着したい。階段を上がって尻のポケットから定期券を取り出し改札を抜けると丁度電車がホームに滑り込んでくるところだった。体調を案じた実兄がやたらと渡してくる熱中症対策グッズで膨らんだリュックサックを抱える様にして、爽は上がった呼吸を整えながら通勤電車に乗り込んだ。
混み合う人々と接触したまま通勤快速は走り続け、冷房が聞いているとは言え電車内は不快指数が高い。イヤホンから漏れてくる音や腕に食い込むハンドバッグに、乗客の無言のイライラが積もってゆく。早々に挫けそうになった爽は抱き締めた学校指定のリュックサックに顔を埋めた。
彼の高校生活は入学して三ヶ月で止まっていた。一昨年の夏の初め、ある事故をきっかけに、爽は高校に通えなくなった。
ひとりで泣いて苦しんで閉じこもったまま季節は一巡し、二年生になり損ねた彼は、蝉の声も鳴り止ま夏の終わり、たくさん心配をかけた父と共に学校関係者への挨拶に奔走したおかげで、この秋から一年生クラスへの編入が可能となった。終始頭を下げっぱなしだった父は、それでも汗を拭いながら嬉しそうに笑っていた。
一年間の遅れを取り戻すべく、暫くは通常授業の後、補習が行われる予定だ。勉強も運動も得意ではない自分は、他人の何倍も努力しなければ追い付かないことは分かっている。
満員電車に挫けている場合ではない。爽は顔を上げた。
走り続けた通勤快速は、やっと最初の駅に停車した。乗り換えで人が降り、一瞬空いた車内に、瞬く間に新たに乗車した人が押し寄せる。出入り口付近に立っていた爽は人の波に翻弄されるがまま、いつのまにか車両奥の座席と車両連結部のドアの間に追い込まれてしまった。彼の小さな身体では、溺れた様に頭を上げて息をするのがやっとだった。
しかし、無情にも発車のベルは響く。
最寄り駅、青葉台は急行停車駅である。上りは渋谷へ乗り上げ、下りは乗り継いでゆけば海に出る。爽の通う高校は「港邦高校前駅」から徒歩10分。駅は青葉台から下りに数えて、港南台・光洋公園・緑ヶ丘・港邦高校前と続く四つ目の急行停車駅である。青葉台から港南台までは三駅、港南台から光洋公園駅までは六駅、光洋公園駅から他線や地下鉄への乗り換え駅である緑ヶ丘までは四駅、次の港邦高校前駅から後は各駅停車となる。
大きく揺れた電車が発車して間もなく、頭上から額に風が吹きつけてくることに気付く。風で前髪が揺れるのが不快で、一体何処からピンポイントで自分の頭に吹きつけてくるのかと爽がふと視線を上げると、ジッと自分を凝視する中年男性と目が合った。一瞬で状況を悟った爽は渾身の力を込めて身を捩って背中を向けた。
彼はこういった体験は初めてではなかった。
際立って小柄な体格が嗜虐性を煽るのか、これまでもそう言った人間に目をつけられることがあった。彼らは同様にまるでマタタビに酔った猫の様に恍惚とした表情で鼻を鳴らすのだ。
「被害にあう方にも原因がある」とか「隙があるから」とか他人は決まってそんなことを言うがそんなの知ったことではない。その恐怖たるや筆舌に尽くし難く、しかしこの閉鎖空間の中では奥歯を食いしばって耐えるしかなかった。やがて電車が大きく揺れたとき、相手は厚かましくも下腹部に手をねじ込んで来た。
(なんで俺ばっか、こんな目に。)
爽は青ざめて怒りに震えた。くやしくて涙が出そうだった。
でも、今はそれ以上に怖くて仕方なかった。自分の動悸に喉が締め付けられたように萎縮していて声が出せない。耳の後ろに生暖かい鼻息が当たる。気持悪さと暑さと圧迫感でおかしくなりそうだった。
やがて電車は次の停車駅のホームに滑り込んだ。
車両からは川に解放された魚のようにどっと人々が噴き出しホームに流されていく。一気に脚の力が抜けた爽はその場に膝から崩れ落ちてしまった。
「通勤快速はここから先各駅に停まってまいります。次の停車駅は港邦高校前、港邦高校前です。」
車内にアナウンスが流れると電車は再び走り出した。まだ車内に殆ど学生の姿は見えない。
「大丈夫?具合悪いの?」
不意に掛けられた声にも、爽は反応することが出来なかった。極度の緊張と嫌悪感で腰が抜けてしまった様に力が入らない。ただリュックサックを抱えたまま屈辱で顔も上げられない。
「君、港邦の生徒だよね、もう駅着くけど、立てる?」
やっと、力なく首を振ると、声を掛けてくれたその生徒は親切に長身を屈ませて肩を貸してくれた。
いつも家族に守られてきた彼にとって他人は警戒対象で、その暴力に屈服するしかない自分にも、望んでいる訳ではないのに結局いつも守られてしまう自分にも嫌気がさす。それなのに、その他人の存在に、張り詰めていた心がみるみる緩んでいくのを爽は感じていた。たった今他人に虐げられたばかりだと言うのに。
こういう人間を何と呼ぶのか、彼はまだ知り得ない。
「・・・えっ、ひかわ・・・?」
自分と同じ制服を着ている彼は、驚いたような何とも形容し難い表情を浮かべると「兎に角、降りよう。」と、爽を抱えるようにして降車し、そのままホームのベンチに降ろしてくれた。その洗練された仕草には覚えがある。その迷いの無い救済精神。しゃんと伸びた背中。低く穏やかな声。
「・・・いいんちょう?」
「アハッ、やっぱ氷川かあ!」
長身の、短く刈り込んだ黒い髪。鼻筋の通った賢そうな顔立ちに眼鏡が良く似合う好少年は、ベンチに座った爽の目線にあわせて腰を落とした。
「どうした、いつから学校来てるんだ?」
眼鏡の奥の、キラキラ輝く優しげな瞳に映った自分の姿から、爽は思わず目をそらした。
「今日、から・・・です。」
「アハハ、なんで敬語?」
「あ、ありがとう。委員長が声掛けてくれなかったら、俺また学校行けなかったかも知れない・・・です。」
卑屈になる気持ちを振り払って爽が礼を言うと、
「委員長・・・じゃないから。」
少年は少し残念そうな、切ない笑みを浮かべて、
「俺は、椿だから。椿啓輔。氷川、どうせ俺の名前なんか覚えてないんだろ。」
白い歯を見せながら、爽やかに椿は言った。この男の前で、自分の名前を恥ずかしいと感じるのはこれが初めてではない。爽は俯いて口ごもる。
「ハハ、いいよ。でも、そろそろちゃんと名前で呼んで?」
椿啓輔とは、中学1年と3年でクラスメイトだった。
真面目で誰にでも親切な椿は、呼び名どおりクラスの委員長で成績もよく、教師からも生徒からも信頼が厚かった。もっとも同姓の中には、気障とも感じられるその物腰のため一部の敵はいたようだが。当時から体も小さく虚弱だった爽が、その「敵」の標的にされた時も、助けてもらったことがあった。だが二人は友達と呼べるほど親しくもなく、爽は母を事故で亡くし、住み慣れた土地を離れて暮らし始めたばかりで、親交を深める心の余裕はなかった。
「うん。大分顔色も良くなったね。そろそろ立てる?」
「あ、うん。大丈夫。ありがと、椿・・・君。」
初めて自分の名を呼ばれた椿は嬉しそうに、
「どういたしまして。」
と笑顔を輝かせた。
改札を抜けて、朝日が眩しい出口へ向かう。
長い憂鬱な日々は過ぎ去り、緊張して向かえた新しい朝だった。
ラッシュの洗礼に合い、相変わらずの下らない大人に屈辱を味わい、世知辛さも思い知った。
だが、そのおかげで椿に再会えたのも事実だ。
何より一年間の遅れを取り戻さねば。
卒業がかかっているのだから。
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