(K)not School Days 6
例年、二学期が始まる九月一日には、所轄の消防署局員を招き、震災が起こったことを想定した消防避難訓練および全校集会が行われる。椿たち生徒会役員は訓練の引率を始めとする運営補佐を担当していた。港邦高校の校風として、出来る限り学校生活における催事は、生徒達主体で運営する事とされている。自由と責任。やりたいことやっていいよ、でもケツは自分で拭いてネ。ということである。校則に護られるのは多少窮屈だが安全だ。しかし学生のうちからリスク管理を想定に入れた学校生活を送ることで、好奇心は満たされ、同時に危機管理が身につく。
その校風を体現しているのが、港邦高校生徒会なのだ。椿啓輔はその生徒会役員の書記である。
「もーう、敏感さんねぇ。」
「み、耳や・・・ひ・・・。」
「ぶー、ダメ~。えいっ、ぴっ。」
「あッ。」
カーテンの外に漏れ聞こえる淫らな声に仰天した椿は、一番奥のベッドに突進していった。
「おいッ!!」
すごい勢いでカーテンが翻り、中にいた仲山が悲鳴を上げた。
「もぉ〜なぁにぃ〜びっくりするじゃなぁい。」
「びっくりしたのはこっちだわ!」
白衣の女性保健医と生徒がカーテンを閉め切り、揺れるベッドの上で身体を密着させている。高校に入学してから、この人の保健医らしからぬ噂を、椿は何度も耳にしてきた。
だがまあしかし実態は、単にスキンシップ好きでノリがよく、人との距離感覚が近いというだけだった。事実、そんな彼女を慕う生徒も多く、彼女を「おかあさん」と呼ぶ女生徒もいる。確かにその豊満な肉体を見れば、思春期の生徒など惑わすことなど簡単に思える。かと言って、調子付いた男子が、大人の保健体育を教えているとか噂を立てても、それに傷付くお嬢さんでもない。やんわりと否定、且つかわすことができる大人の女性だった。
それだからこそ、現場を押さえてしまった椿はショックを受けていた。
「貴女は、何をしてるんですか!」
「何ってえぇ・・・お熱を測ってましたぁ。」
仲山の手には耳温計が握られている。椿は突然起こった感情の嵐を鎮めるのに必死で、しばし言葉を失った。心の中で念仏を唱え深呼吸をすると、やがて仲山の下で布団がもぞもぞ動いた。
「あれ・・・つばき。」
なんで自分がいるのか不思議に見上げる、ぼんやりとした視線を受けて、椿は肩を落とした。
「・・・クラスに行ったら、朝からずっと保健室だって聞いて。」
職員室に預けたままになっていた爽の鞄を見せてそう言うと、
「そっか。もう下校時間なんだ・・・ごめん。」
「帰ろうか。」
「ん・・・」
答えはするがまだ目覚め切っていない爽は、なかなか起き上がろうとしない不意に仲山が椿に身を寄せて、その耳元に囁いた。
「ばっきぃ、なんか誤解したの?」
「・・・してません。」
「ヤダ、どんな誤解したの?」
「してません!」
「こんな誤解?」
と言いながら、仲山が勢いよく布団をめくりあげると、爽が四肢を縮めてひゃっと叫び声を上げた。椿の血管は、たちまちブツンと音を立てた。
「目が覚めたでしょ?」
やっと起き上がった爽は、ベッドの上で仲山からズボンを受け取ると、のろのろと身につけ始めた。後頭部に盛大な寝癖をつけた爽が何度も自分の名を呼んでいたようだが、椿はブツブツと念仏を唱え続けていた。
爽の歩幅に合わせて並んで歩き、校門を出る。
坂を下って駅が見えてくると隣の呼吸が少し荒くなっているのが分かった。上りの電車は一本遅らせることにして少し歩調を緩める。
「のど渇いたな。氷川なんか飲む?」
「・・・いい。」
ホームのベンチに腰掛けて、十五分後の電車を待っていると、ようやく爽が口を開いた。
「ごめんね。」
「謝るなよ。どうせ帰り道一緒じゃないか。おな中なんだし。」
椿が爽やかに笑って見せると、爽は下を向きまた黙ってしまった。
(何だ?俺何か気に障ること言ったかな・・・。)
椿は今朝の様に話そうとしない爽の様子に、あれこれ思考を巡らせたが、結局見当がつかないまま、やがてホームへ急行電車が滑り込んできた。
正午過ぎの電車は、朝とはまるで違う。車内は殆ど貸切状態で、少し間を空けてシートに並んで腰掛ける。後頭部のはねた髪が午後の陽差しを反射している。耳朶の産毛も光っている。椿は電車の揺れに身を任せて、ぼんやり中学の頃を思い出していた。
当時、椿はあるトラブルから気まずくなってしまった爽との仲を、何とかして元に戻したくて必死だった。中学二年でクラスが別れ、三年でまた同じクラスになった。爽と志望校が同じだと聞いてチャンスだと思った。
合格発表前日は眠れなかった。爽の合格を聞いて、また三年間一緒にいられることが嬉しかった。まだ、三年もある、三年あれば友達になれる。
卒業式の日、調子に乗って申し出た誘いを断られ、物凄く落ち込んだ。
しかし高校で同じクラス、しかも隣の席になった。椿はこれから青春を謳歌するはずだった。
相手のリアクションで上がったり下がったり。全く自分らしくない。そんなの自分が楽しむことばかり考えていたからだと、後になって椿は自分を責めた。
体調が悪いなんて氷川には良くあることだと思ってしまった。爽が様々な問題を抱えていたことに気付かなかった。知った後ではもう、どうにもならなかった。校内で囁かれる、事故の憶測、誹謗中傷。心無い酷い噂。
爽はとうとう不登校になってしまい、爽とクラスメイトでいられた一年は終わった。自分の無神経さを呪い、無力さに失望した。もう諦めようと思った。
でも、それでも。またこうして隣に氷川がいる。自分と並んで電車に揺れている爽を見て、椿はもうそれだけで充分だった。
青葉台駅南口を出て少しすると、不意に椿は腕が引っ張られるのを感じた。振り向くと、爽が青い顔をして自分の袖を引いている。椿が声を掛けそうになると、人差し指を唇に当て、爽がじっと視線を投げてくる。
(後ろに誰かいる。)
(いつから?)
(電車・・・?多分乗る前から、ずっといる。)
尾けられている?
囁くように爽がそう言うので、椿は後ろを見ないように爽に並び、靴紐を直すフリをしてその場にしゃがんだ。
(知らない人?)
(わかんない・・・顔見えない・・・。)
事件以来、過敏になった爽は、まだこういった事態に冷静に対処できる程には回復していない。小さな子供の様にみるみる瞳は涙で波打ち、小刻みに肩が震えだす。ようやく、学校を出てからの爽の様子に合点がいった椿は、
(よし、ついて来て。)
立ち上がって爽の手を引いた。
そのまま歩いて最初の角を曲がり、爽を自分の後ろに引き入れて待つ。近付いてきた足音は急に早まり、二人に迫って来た。角を曲がった時、椿は振り返って後を追ってきた影に、思い切り鞄を叩き付けた。
「おおっ・・・っぶねーなあ!」
相手は大きな手で肩を擦りながら睨み付けてきた。その想像以上の高さからの視線に椿の顎がグッと上がった。胸元のボタンをざっくり深く開け、裾はズボンに入れずにだらりと着崩している。夏服のシャツはどこも似たようなデザインだが、胸ポケットには港邦高校の紋章が入っていた。
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