「(K)not」第六話
バイタルサインを表示しているモニターから突然アラームが鳴り始めた。
午後の回診をしていた沖崎は、背中から冷水を掛けられた様に驚いてモニターを凝視する。握り締めた拳が震えていた。
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「そして脳波や心拍の波が発生した時刻は15時11分37秒。午後16時26分01秒変動のピークを迎えます。此方へどうぞ。」
沖崎は先導してドアを開け、正一郎らを招き入れた。簡易なデスクにノートパソコンと積み重ねられた書籍類が散乱し、整理整頓されているとは到底思えない状態だが、この部屋の主人に言わせれば独自の法則に基づいて配置されているベストな状態だと言う。正一郎と理紀はほんの少しの振動が、ジェンガの如き塔を崩してしまわないかと細心の注意を払って席に着いた。
「さて早速ですが、その覚醒前状態に導いた時の脳回路についてですが・・・」
社交辞令的前置きも無く、沖崎はスラスラと本を読む様に話し始める。
「意識に関わる領域は、脳の表面にある大脳皮質と脳の核・視床の相互作用、更には外側中心核と皮質深層部の2領域の相互作用と言われています。脳内に張り巡らされている神経細胞が集まる前障が、意識の源であるという研究結果もありますが・・・」
このままでは、何処まで行くか分からない、いや何処まで行っても分からないであろう沖崎の高説に、正一郎は挙手して切り込んだ。話を遮られた沖崎は目を見開いて驚き、やっと口を閉じた。
「すみません。先程先生が仰った言葉の意味を考えてみたんですが・・・」
「ああ!『あなたは脳じゃない』?正直、私自身はその表現に納得していません。」
彼の意味不明な言葉について必死に考えていた正一郎にとっては、無慈悲とも思える程あっさりと沖崎は答えた。そしてまた息継ぎ無く話し始める。
「You are not your brain(あなたは脳ではない)、意識は身体全て、そして外の世界や環境を含んだ全体的な現象であり、ただ脳の中で完結した現象ではない、という米国の哲学者の言葉です。」
「既に日本語が理解できないんですが。」
阿呆のように口を聞いていた理紀がとうとう白旗を挙げる。沖崎は破顔したものの、一切の補足説明は無く悦に入り喋り続けた。
「いばら姫とは、よく言ったものだな。実はグリム兄弟は深層心理下で脳神経のイメージを捉えていたとか・・・興味深いですが、実のところ物質と非物質は本来全くの別ものなのです。故に私は訂正する。『あなたは脳でもない』と。ああ、失礼しました。些か脱線してしまいました。」
結局のところ、今回の一時的変化は段階を経て起こったものでなく、突発的だったことから、沖崎は今後の経過を見てそれが何に起因するものなのか究明する、と述べた。変化の瞬間、意識世界に何が起こったのか。もう一度検証すると言う。
「つまり、まあ、原因が分かれば、もう一度こちらから揺す振りを掛けることができるってことですか。」
眉間に深くしわを寄せて問う正一郎に、沖崎は深く頷き、眼鏡の奥の瞳を輝かせて応える。
「そうです。仮説ですが、何が魂を揺さぶったのか。今度はそれを人為的に起こす。そして変化が起こった瞬間、覚醒にまで導ければ、我々の勝利です。」
正一郎と沖崎は、昭和の熱血スポ魂ドラマの様に握手して見つめ合っている。そしてどちらからともなく声をあげて笑い合った。まるで勝利を過信した悪役のソレに、理紀は脱力して肩を落とした。
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抹茶クリームフラペチーノは「マチヤチノ」と名乗った。どうせ偽名だろうが、瞬もまた「ミドリ君」として相対することにして、この得体の知れないゴスロリに、自分と自分の家族が揃って同じ夢をみる現象について話して聞かせた。
家族の誰かが失くしものをする。
どんなカタチか尋ねると、絵に描いて見せられる。が、夢から醒めると忘れてしまう。ただ「見つけて欲しい」という想いだけがずっと頭の中に残っていて、いつも何となく探してしまう。しかしそのカタチは思い出せない。
家族みんなが、何とも寝覚の悪いモヤモヤした気持ちを引き摺っていると言う。
「で、ここまではインスタの通りなんだけど」
「あー、あの西瓜。すごいにぇ。」
「でしょ、めっちゃ映えるっしょ・・・じゃなくてひとつ気付いたことがあってさ。」
失くしものをしたのは家族の誰かの筈なのに、誰もその「誰か」が分からない。この中の誰かとしか分からないのだ。
瞬はあの後、夢を見た人間は皆「頼まれる側」であると言うことに気付いた。ただ一人を除いて。
「君たちの無意識が繋がっていて、誰かの無意識が家族の無意識に影響を及ぼして、失くしものを探して欲しい気持ちを夢という形で伝えている。結果、夢を見た人の手を借りて実際に探す事が出来る。遠隔操作のようににぇ。君だってその夢が気になっちゃったから、ここまで来ちゃったんだよにぇ?」
「俺、誰かに操作されちゃってるってこと?」
「んー、そう言えなくもないよにぇ。」
自分の意思で行動していると思っていても、実は誰かにそうさせられているのかもしれないなんてショックだ。
「でも見つかる訳ないじゃん。こっちは肝心の失くしものが何なのか分からないんだから、操作して探させても意味無いじゃん。」
半ば悔し紛れの負け惜しみのように言い捨てた瞬に、マチヤチノはマスクの下に満面の笑みを浮かべて答えた。
「その失くしもの、何なのか調べてあげよっか。」
「え?」
「ね、また何か思い出したらここから連絡して。」
瞬のスマートフォンの画面を指差した。ネイルの先にはいつのまにか紫色の蝶のアプリが張り付いていた。