「(K)not」第三十八話
鋏を持つ手が震える。刃物はあまり持ち慣れない。なぜ今こんなことになっているのか、こういうことが一番上手そうだからか。だったら器用そうに見えるのは良いことばかりじゃないな。誰にだって得手不得手はあるのだ。たとえ血を見るような失敗をしたとしても、それは俺だけの責任では無い。今回は相手が悪い。
上下の刃先が重なり合う時に薄皮をちょっとでも破ろうもんなら、血飛沫が盛大に吹き出して簡単に死んでしまいそうな儚いいのち。自分でもそれを予感してか、胸の前で硬く組んだ両手を微かに震わせている。俺は全然悪くないのに何だか苛めているような気分になってくる。居た堪れない気持ちを押し殺し、細っこい首根っこを押さえ付ける。
「動くんじゃねえぞ。」
唾を飲む音が指先から伝わる。産毛が見える程に顔を近づけて、ゆっくりと鋏の片刃を頸に近づけると、ビクビク肩を震わす。
「あ、あの・・・息っ、鼻息がっ・・・」
「動くなっつったろ!」
「ゴメン。ゴメンなさい!で、でもくすぐっ・・・ヒィ!」
「ふざけんな、危ねぇだろ!こっちは真剣なんだよ!」
花火大会の翌日、通常運転に戻ったと思った矢先、台所の主が過労で入院してしまったため、朝の氷川家は大混乱だった。靴下もネクタイも何処にあるか分からない。冷蔵庫には漬物しかない。炊飯器を開ければ炊けた米が無い。明らかに機嫌が悪い正一郎が車で出ていくのを見送り、和二郎は朝食を諦めて早めに家を出た。先週から溜まったままのメールを確認して、後回しにしていた月末締めの仕事に取り掛かって気付くと昼過ぎだった。昼食の時間はある訳もなくミーティングに突入し、一服ついでに栄養補助食品を口に放り込む。仕事はまったくの平常モードを取り戻したかに見えた。
そうして帰路に着いたのは時計の針が23時を回った頃だった。和二郎が最後の力を振り絞って玄関を上がると晴三郎の声がした。たった一晩で台所の主が復帰してくれたおかげで、やっとマトモな飯にありつけるのかと和二郎は心から喜び、いそいそと台所のドアを開けると、据え膳の如く息子が待っていた。
「なんだお前たち、まだ起きてたのか。」
和二郎が席に付くのと入れ替わりに理紀が席を立った。
「じゃ、話したら早く寝ろよ。」
爽は素直に頷くと、まだ何か言いたげな理紀を見送って「お話しがあります」と和二郎に向き直った。
「あの、髪を切って欲しい、です。」
もう頭が1ミリも回らず、意を解さぬ和二郎が固まると、爽は意を決して、
「・・・学校、行くために。」
そう、自分の口から言うために待っていたのだと。
爽が頬を紅潮させて部屋を出ていくのを見送り、和二郎は箸を握りしめていた。あんなに腹が減っていたのに、並べられた夜食に手をつけることができない。
「じゃ、それ食べたら流しに置いて水かけておいて、僕ももう寝るから。お先におやすみなさい、わっくん・・・え、ちょっとわっくん!?」
晴三郎が心配する程に、和二郎の目からはボトボトと涙が溢れ落ちていた。
翌朝、正一郎がLDKに入るとテーブルには既に朝食が並んでいた。和食を好む正一郎の為に用意された焼魚と味噌汁がフワリと良い匂いをさせている。こんな手の込んだ和朝食は随分久し振りな気がするのは、台所の主が完全復活を遂げたからで、その有り難さに心から手を合わせる正一郎だった。
「いただきます。」
熱々の味噌汁を啜りふと居間の方に視線をやると、和二郎がコーヒーカップを手にこちらを見ていた。瞼が鱈子の様に腫れているのだが、正一郎は面倒くさいから言及することを避けた。
「なあ、消防署、何か言ってきた?ぶっちゃけヤバそう?」
花火大会の夜、中学校の校庭で無許可の花火を打ち上げたことについて、条例に触れるであろうことはある程度予想していた。が、しかし一日経ってもその件について触れられることは無かった。
「その件だがなァ、特にお咎め無しだそうだ。」
「えっ、あれだけ派手にぶち上げたのに?」
和二郎が驚くのも無理はない。そればかりかSNSに動画投稿すら上がらないのはどうにも気味が悪い。アレは控えめに言っても爆裂事故だった。
「どうも腑に落ちねえんだが、そもそもあの晩アレを目撃した人間が、俺ら以外に居ないらしい。」
「ウソ、苦情も一切無し?」
「全くどうなってやがんだか。」
正一郎は卵焼きが自分好みの味であることに満足して飯を頬張る。
「へえぇ。案外人って見てるようで見てないのかもなあ。」
「んな訳ねえだろ、どう見てもそんな規模の花火じゃなかっただろ。つうか出版社どーなってんだ?おかしいんじゃねえのか!?」
「そう言われてもなー、部署が違うからなー。」
「大体お前だって髭を焦がす程度で済んでラッキーだったけど、一歩間違ったら死人が出てたかもしれないんだぞ。全く彼奴は加減てもんを知らねえ。」
和二郎は火傷した顎に手を当てながらゾッとした。
「あれからヤタさんには会ったのか?」
和ニ郎の問いに、熱い緑茶を飲み干した正一郎は苦々しく顔を歪める。
「いや、それが・・・彼奴また行方をくらませやがった。」
あの台風の夜、そもそも晴三郎と喧嘩をしていなければ真っ直ぐ帰宅しただろうし、植島のマンションに行かなければ、彌太郎に再会もしなかった。しかも失踪同然だった彼の現職が花火師で、規格外のためボツになった渾身の花火玉を持っていて、と言うのは偶然にしては出来過ぎだ。誰かに仕組まれているのでは、と勘ぐるのは正一郎でなくとも当然だった。
「そっか。で、あのゴスロリちゃんは?無事?」
「ロリ・・・まあいいや。無事に目ぇ覚めたってよ。てお前知るもんばっかだな。」
なぜ街夜魑之が開花した花火の真中から現れたかについては、ただ理解が及ばない事象が起こったのだとしか、今のところ言う他無い。しかしあの夜、聖名が目覚めたことは変えようのない事実で、その為に尽力してくれた人物に、あれこれ説明を求めるのは野暮だと思う。彼女はそれだけの対価を払った、文字通り体を張ったのだ。
「まあ、今回の件は有馬に任せとく訳にもいかないだろう。落ち着いたら改めてきっちり御礼に行かなきゃな。」
正一郎はそう言うと、席を立ち洗面所に向かおうとしたがふと足を止め、食べ終わった食器を慣れない手つきでガチャガチャとシンクへ運び、
「こんなもんか・・・ふん、あとはわからん。」
首を傾げながらブツブツと呟いて食卓を後にした。