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「(K)not」第二十七話
真夏の深夜。晴三郎の嗚咽は牛蛙の鳴声にかき消されてしまう程か細く、氷川家の居間の空気は、まるで今夜の様な月明かりの無い曇天の夜空の如く鈍く重々しかった。
「分かった。僕が働く。」
その声に皆が我に返ると、襟人が正一郎の前に歩み出て向き合いハッキリと言い切った。
「大学は休学すればバイトだって自由だろ?実はずっと考えてたし。」
ずっと考えてた。普段、冷静で思慮深い彼を知る家族たちは、この突発的で短絡的な発言を聞いて、彼でさえ動揺を隠せていないことが分かった。しかし当人は何時に無く落ち着きの無い早口で続ける。
「ちょうど、教授の知人で来年弁護士事務所を開業する人がいて、手伝いを募集してるって・・・」
「黙れ襟人。守られてる身であんま調子に乗るんじゃねえぞ。」
正一郎の眼光が襟人を射抜いた。しかし一括され怯むと思われた襟人は一歩も引かなかった。眼鏡の奥のいつも穏やかな目は血走って、見せたことの無い、しかし父親そっくりの激しい眼光を放っていた。今にも殴りかからんとする拳を震わせながら、
「ずっと前から言ってやりたかったんだ。炊事洗濯、家事の一切合切押し付けて、家に縛り付けて仕事もさせないなんて、この人を家政夫か何かと勘違いしてんじゃないのか。そのくせ子供の回復を信じるな期待するな、一方的に治療打ち切るって、世帯主だか何だか知らないけど横暴が過ぎるだろ。そんなのただの脅しじゃないのか。」
そう怒鳴って、襟人は何年も溜めた鬱憤を噴出させた。母たちが亡くなってから、自分や有馬には何の相談も無くこの家に晴三郎たちを呼び寄せたのは正一郎だった。受験を控えていたこともあり、同じ境遇の子供たちが一つ屋根の下で暮らすことに、何も疑問を持たない襟人では無かったが、彼らの存在がこの広過ぎる邸宅を取り巻く温度を上げたのは事実だった。そして何よりも、晴三郎の存在は襟人の人生においてに大きな影響を与えた。しかしそれは同時に、正一郎への承認欲求と超越願望を自覚させることへもなっていた。
「何とか言えよ!」
有馬が静止する腕を払い除けられず、踠きながらぶつけてくる襟人の憤りにも微動だにしない正一郎を前に、
「あ、あの、あのあの、ま、待って待って。」
決死の覚悟で食らいついたのは、爽だった。
意外過ぎる彼の行動に、有馬と瞬、理紀、襟人さえも呆気に取られていた。
「あ、あの、聖名が・・・み、聖名の・・・。」
気の毒なほどに狼狽えながら、震える足で一歩踏み出すと、途端に床に座り込んでしまう。
「爽、一旦落ち着こう。」
「さわっち、深呼吸。」
有馬と瞬の応援を受けた爽は、余りにも慣れないことをして目を白黒させながら頷いた。そして深呼吸を繰り返して咽せた。
「何がしたいんだ、お前?」
一連の落ち着きの無いムーヴを見兼ねた理紀のツッコミに、
「お、俺が、聖名の見つけて欲しいもの、を、かっ隠した・・・から・・・」
正一郎の表情はピクリとも動かなかった。
「別に今そんなこと言ってないじゃん。」
張り詰めた空気を読んだ瞬が、慌てて止めるのも聞かず爽は続けた。
「夜中に・・・黙って外に出て、め、迷惑かけて、ごめんなさい。」
湧き上がるいくつもの感情の波に溺れそうになりながら、何とか息継ぎをして爽は謝罪した。
爽の思考は他と少し異なる部分があり、自分の中で完結させてしまうことがある。その為会話が噛み合わないことがままある。質問を質問で返したことで相手をイラつかせたことに怖気付いて黙ってしまうことも多かった。
しかし聖名は、相手がどういう思考でその言葉を発したのか汲み取るのが上手かった。他が理解できない、面倒くさいと感じることでも、そこにある真意に辿り着くまで注意深く相手に寄り添える性格だった。
「目を覚ませば、いい?目を、覚まさせれば、元に、戻る?」
傍目にはムッツリと怒っている様に見えても、その実、正一郎は爽の言葉の意味を理解しようと努めていた。
「え、何言ってんのお前。」
理紀が皆の思いを代弁する様に言うと、爽は言い直そうとパクパクと口を動かすが言葉が上手く出てこない様だった。どうやら彼は「聖名の目を覚ますことが出来れば、正一郎も晴三郎も襟人も元通り仲良くなるか」と確認していると思われる。皆は視線を交わして半信半疑頷いて見せた。それを「応」と見た爽は辿々しく続けた。
「み、聖名の大切な、物でも、それが無いと、俺・・・ダメで・・・で、でもそれを使えば、聖名を見つけることが、で、出来るかもで・・・だからっ。つ、つまり・・・諦めるのは、もう少し待って、ください。」
「なぜ敬語・・・?」
「見つけることができる?」
「うん。」
正一郎が要点に食い付いたので、有馬と瞬は少々焦った。有馬の部屋で話した計画はまだ企画段階で、肝心のアイテムもまだ回収されていないのだ。駄菓子菓子、ここでハッタリをかましてでも時間を稼がなければ、聖名の治療は打ち切られ、晴三郎は家を出て行き、正一郎と襟人は戦争を始め、一家離散、路頭に迷う羽目になると意を決した瞬は、全力で爽の後方支援をすることに努めた。
「そうなんだ!そんなに便利なアイテムがあるなんてスゴいじゃん!それは試してみる価値あるよ、ねぇ!有ちゃん!」
「えっ。ああ、あーおう。」
突然同意を求められた有馬も、適当に調子を合わせたが、すぐに正一郎の視線に捕まった。
「おい、有馬。お前んとこ一枚噛んでるな?」
流石と言うか、現職の検察官の読みはズバリ当たっているのだが、問題はその時彼が苦虫を噛み潰したような顔をしていたことだ。瞬は、正一郎と目を合わせようとしない有馬の袖を引っ張り耳打ちした。
「どういうこと?有ちゃんの会社、正さんと仲悪いの?」
「バッ・・・カんなことねえ・・・だろ。」
ハッキリしない態度ではぐらかす有馬に、自分の知り得ない事情があると察した瞬は大人の狡猾さに腹を立てた。
「昨日、俺は、有ちゃんとこの社長さんとベッド・インしました!」
晴天の霹靂、寝耳に水、突然の瞬の告白に、晴三郎は卒倒し正一郎は有馬の胸ぐらを掴んで凄んだ。
「説明しろ。」
地獄の底から響く様な殺意に満ちた声だった。
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