応現於竹物語 歌川国芳
嘉永2年(1849)年、緑亭川柳(著)、朝櫻樓国芳(画)。
水谷緑亭(1787年 - 1858年)は、5世川柳を襲名した江戸時代の川柳作家。本名は雅好、通称は金蔵。幼少期に父を亡くし、佃島で漁師に養われ、後に魚問屋を営む名主となった。2世川柳に学び、「腥斎佃」と号した。緑亭は10代から句作を始め、地元の信望を集めた。天保の改革で4世川柳が職を辞した後、天保8年に5世川柳を襲名し、地味な人柄ながら孝養や地域の風俗矯正に尽力し、町奉行所から三度の褒章を受けた。1858年に没した(参考)。
於竹は、江戸時代に庶民から信仰された孝女。1623年に山形県庄内で生まれ、18歳で江戸に移り奉公人として働いた。貧困者への慈悲深い行いが広まり、貧しい人々に施し、光明を発する大日如来の化身として崇められるようになった。1680年の於竹の死後に木像が造られて信仰の対象となり、芝居や草双紙で伝説が広まりて庶民に大流行した。
小林一茶(1763~1828)の俳句も残る(出典)。
雀子やお竹如来の流し元 雲の日やお竹如来の縄だすき
於竹の物語は、佐久間家や馬込家といった名主の家で奉公しながら、日々の暮らしで一粒の米や野菜を粗末にせず、困窮者に施すなど、極めて慈悲深い行いを続けた。その姿から「台所から後光がさしていた」との噂も広まり、出羽国の行者に「大日如来の化身」と告げられる。以後、雇い主は於竹に持仏堂を与え、念仏三昧の生活を支えた(参考)。
どうやら最後にある発行書林のページは落ちているようだった。