コロナでホテル療養したら辛かった話
一人っ子で、ひきこもりがちな性格だから、他人とまったく会話しないことは苦痛であるどころか、むしろ心の平静が保たれるという面では良いことだとさえ思う。
そんな僕ですら、コロナになって宿泊療養した際、新大阪のビジネスホテルの一室にほとんど監禁状態で1週間過ごして、発狂しそうになった。共同生活を強いる刑務所でも、懲罰的に隔離されることがあるのは、他人との接触を絶たれて一人にされるということが、より苦痛だからではないか。
同時期にニュースがあった。20代の男性が、新大阪周辺の宿泊療養所から2日で逃げ出した。感染拡大するなか、うまく段取りがついてホテル療養できたのに逃げるとは何ごとか、と怒る人もいる。ただ僕は逃げ出した人の気持ちもわかる。
迎えにきたタクシーは、前後の席をビニールで隔てた特別使用車だった。「番号○○○○さん、今から向かいます」と運転手がホテルに連絡する。タクシーは意味ありげにホテルの裏口につけた。「番号○○○○さん、到着しました」と連絡する。僕は番号で呼ばれる身分になった。悪いことをしていないのに囚人になった気分だ。実際「施設を出ると警察に連絡します」と冊子に書いてあった。
案内者などいない。ディズニーのアトラクションとは違って、床に直張りのガムテープの矢印にしたがい、業者の出入口から地下へ入っていく。B1から2Fまでエレベーターで上がる。道中だれもいない。職員はおろか、療養者の姿すらない。
受付は、ホテルのフロントではない。事務室を本来そこになかった急ごしらえの壁で間仕切り、会議机をくっつけて小窓を2つ設けた簡易的なセットだ。テーマパークのチケット売り場みたいに、ガラス越しにマイクとスピーカーで会話する。高速料金所のおっさんのほうがまだ窓から身を乗り出してフレンドリーに接してくれるというものだ。ガラスに保険証をくっつけて本人確認を済ませる。相手からの拒絶感、触れちゃいけないものと接触している感じが、なんとも絶望を誘う。「ウーバーイーツなど利用できますが、別紙の書類を提出していただくことになります」と説明を受ける。ウーバーで頼むようなファストフードは体が求めてないし、手続きが面倒なので、利用する気は起きない。ただこの救済措置、食を通じた外部との接触は、のちに毎食冷えた弁当を腹に詰め込んでいると、その尊さがよく判ってくる。
7時、12時、17時に食事がある。「お弁当を取りに来てください」と館内放送が流れる。1日のスケジュールは、朝夕に体温とパルスオキシメーターで測った数値をウェブ上で入力して終わりだ。求められるのはそれだけだ。あとはむやみに外出せずに、大人しく部屋で過ごすことになっている。
ここで闘うのはウイルスではなく退屈である。しおりには「暇つぶしになるものをご持参ください」と書いてある。もしスマホもタブレットもノートPCもなかったら…と想像してぞっとする。毎日横になってTVを眺めるだけの暮らし。それは90を超える祖母の生活そのものだ。自分も高齢に達したら、同じような退屈を退屈と思わず生きるのだなと悟る。
音が支配する。音の侵入によって、自分が不自由な環境に置かれていることを強烈に自覚させられる。部屋の天井スピーカーは、本来ホテルが非常用のアナウンスを流すものだ。そこから体調管理の入力、弁当の到着、各種連絡が大音量で告知される。冷房は、壁のつまみで調節できるが、この音だけは何をしていても、聞きたくないと思っても、拒否することができない。音の侵入はほかにもある。電話の音だ。1日2回、看護師から「調子どうですか」と簡単なヒアリングを受ける。この電話の呼び出し音は、シャワーを浴びていようが、イヤホンで耳を塞ごうが、何をしても絶対に聞こえるボリュームで、何度電話をひっくり返して音量ボタンを探したことか知れない。ドアを隔てた向こうの部屋やそのまた隣室から、呼び出し音が順番に近づいてくるのがわかるほどだ。
アパートでは他人の生活音をめぐって騒動が起きる。たしかにホテルでも上の部屋から水回りの音や、隣室から電話する声、廊下を歩けばテレビの野球中継が漏れ聞こえてくる。そんなものは生やさしいほうだ。なにより耐え難いのは、他人の苦しそうなうめき声を聞かされることだ。喉の痛みや鼻詰まりにやられる。痰が絡み咳がでる。ただでさえ他人の咳やくしゃみに敏感になっている時分だ。隔離されているとはいえ、まわりの部屋の病人が今まさに苦しんでいる最中だとつねに意識させられると、前線の野戦病院にいる気がして、死の香りが漂ってくる。
ホテルは新御堂筋線沿いに建つ。信号のない、高速道路のような幹線道路と、鉄道が通っている道のそばだ。「定期的に換気してください」と注意書きにある。部屋の窓は、ざぶとん大の正方形のもので、安全対策のために、開くといってもわずか数ミリ隙間ができる程度だ。その窓を開けると、眼下を走るトラックのエンジン音、排気音、電車の警笛、走行音が、地上10階の部屋でもかなり耳障りに感じられる。ただ、これでも他人の咳をかき消すには重宝するし、融通のきかない全館空調の乾ききった冷気をやっつけるには役立つのであった。
ホテルの向かいには、客室を見下ろすようにマンションが建っている。窓にレースはなく、遮光カーテンを開ければ中が丸見えになる。自分を見てくれと言わんばかりに夜も全開で過ごした。他人の目を想定する、という作業が、ここで正気を保つために重要な工程だと思ったのだ。夜シャワーを浴びても、カーテン全開のまま見たくば見よといった感じでしばらく全裸になって部屋をうろつく。もちろん誰も見ないだろうが、なにかそういう面白いアプローチがないと、やっていけないのである。
ささやかな遊びとして、弁当を取りに行くときにどれだけ人と会わないで済むか試していた。「お弁当を取りにこい」と言われる時間を見計らって、10分前に部屋を出て、廊下、エレベーター、受付フロアと誰ひとりとすれ違わずに弁当を持って帰ってこれたときは無類の達成感があった。逆に30分遅れて行ったときは、小型のエレベーターに7人の密状態で上下し、弁当の受け取りにも10人の列を並び、帰りのエレベーターに乗るのにも2,3回分並ばねばならなかった。
「何日に帰れそうです」といった告知は一切ない。療養解除は、当日のお昼過ぎに初めて知らされる。解除の条件は「発症から10日間&症状軽快から72時間経過」だ。発症日を0日目として今何日目なのか、自分の体調がその「軽快」にあたり何時間経過したのか、ということは自分でなんとなくそうだろうと思う以外に一切わからない。今日は10日目で帰れると思ったら、隔離は10日目の終わりまでで解除は11日目からだった。帰れると思った日が1日伸びただけでかなり憂鬱だ。夜まで何をして過ごそうか。あと何回飯を食えば終わるんだと、いろいろ考える。自分のためではなく、家族や周りの人の感染を防ぐために来ているんだと思うと、隔離されていることがみんなのためになる、というポジティブな意味づけができて楽になる。ただそんなことは、冷や飯にちょこんと乗ったカリカリの小梅を見ると、すぐに忘れてしまう。
行きはタクシーで送ってくれるが帰りは自費だ。だから帰るときの交通費を持ってくるように注意される。遠方の人は、自宅から車で1時間の距離のホテルまで行くこともある、とタクシーの手配係から聞いた。幸い、僕の療養先のホテルは、自宅から車で10分程の場所にあった。
僕には小窓から見える景色が全世界だった。コンビニに出入りする車、信号機の矢印の点灯に気づかずにクラクションを鳴らされる車、ヤンキー2人乗りの改造スクーター、右車線をぶっ飛ばす軽自動車、それを追いかける黒塗りの覆面パトカー、信号無視する学生の自転車、赤信号を待つ作業員、サラリーマン、主婦、日曜日には淀川の河川敷でBBQを終えて泥酔し、地面で寝る若者なんかを見て過ごした。これが正常に稼働している社会なのだ、自由に生きている人々なのだ。見下ろすセブンイレブンに、電動自転車のシェアサービスがあるのが分かった。ここから出たら、あれに乗って帰るんだと強く思い続け、アプリもDLし、その日を待った。
「おめでとうございます。本日解除になりました」と、高額当選の迷惑メールみたいなノリの電話を受ける。こんなところに閉じ込めておいて何がおめでとうございますだ、となぜか腹が立った。帰るときのほうが荷物は多い。食事ごとに配られる500mlミネラルウォーターの、飲みきれなかった10本。食べられなかったカップ味噌汁11個。期間中は出された弁当とミネラルウォーター以外なにも口にしていない。それでも食事が唯一の楽しみだった。たまに出てくる白桃やオレンジのゼリーは、大切に冷蔵庫にとっておいて、夕食が終わってから、自分のペースでゆっくり食べた。そういうことに無上の喜びを見出していた。両手に水と味噌汁の袋を抱え、エレベーターの禁忌のB1ボタンに触れ、地下通路を上って1週間ぶりに地面を踏む。警備員が門番のように立ちふさがっている。ニュースのこともあり、脱走者と思われないかビクビクしていたが、「お疲れさまでした」と言われ、シャバに送り出された。
ここから何をしても良いんだ。太陽がまぶしかった。熱気が懐かしかった。振り返ってみるホテルの客室の窓は、直視しがたかった。数日前の自分と同じように、全裸でうつろに外を眺めるゾンビみたいな療養者の顔が、何百と張りついているような気がしたからだ。目星をつけていたシェアサイクルのかごに水と味噌汁をぶち込む。僕は晴れて動く風景画の一人物となった。やっと得られた自由をもう自由とも思わなくなっていた。