ひとりぼっちの街
林立するビル。マンションにオフィスに、この街はいったいどれだけの人を飲み込んでいたのだろう。しかし、今日のビル達はひっそりと静まり返っている。
空を見上げる。深い黒がすべてを塗りつぶしている。星が見えない。曇りだろうか。あの星を見ておきたかったのに。
かつて不夜城と呼ばれたこの街が、私は好きだった。
好きだったこの街を、私は今歩いている。
もちろん、この街のすべてが無条件に好きだったわけではない。あらゆる「好きなもの」がそうであるように。
都市とはあらゆるものの過密だと思う。人間、金銭、商品、仕事、欲望。それらの過密は互いをさらに過密にする。この都市が巨大化を続け、あらゆるものを飲み込んでいく所以はきっとそんなところだろう。
毎日毎日どこから来てどこへ行くのか、この街はいつもいつも人間で溢れている。統計学的にはただの大きな数字だが、私にとっては毎日1人1人とすれ違い、密着し、あるいは単に見る事が悲劇だった。人間はとにかくうるさすぎる。五感のうち四感までを占拠するのだから酷い話だと思う。人がいる空間に味を感じたりしないのは不幸中の幸いだった。
目の前を猫が横切った。可哀想に。どうしてこんなところにいるのだろう。君はどこから来てどこへ行くのだろう。きっとどこへも行かないのだろう。どこへも行けないのかもしれない。私みたいに。
この街には人間がたくさんいた。それでも私がこの街を好きでいられたのは、それ以外に素敵なものがたくさんあったからだ。
行きつけのパン屋、不思議な香りの美容室、スケートボードの練習場所、怪しげな路地裏、一度も入ったことのない銭湯、どこかで見た気のする橋、私を見た途端に逃げていく野良猫、私以外に客の来ない喫茶店、置物が店主をやっている本屋、味は最高だけど店主がうるさい焙煎屋、そして――
ふと目を上げると、墨色の空が、深い海のように青く染まっていた。あと少しだ。
さっきの猫が、空と同じ色のねずみを咥えていた。もうやめなよ、今更そんなことしてやるなよ。でも、猫にもやりたいことを済まさせてやることにした。
私は先を急ぐ。川沿いの開けた河川敷へ。
こんな時間でも、普段は私の天敵が散歩やら釣りやらしているのだが、今は誰もいない。いるはずがない。
土手を登りきって、視界が開ける。ぎりぎり間に合った。
ちょうどそれが始まり、測ったように雲も切れた。
視界の端から光が差し込み、ビルの林を一方から照らす。朝日の強い光が、街に新たな日の訪れを告げる。川はいつもどおりに強い光をそのまま跳ね返し、ビルの林は片方が橙に、その裏は濃い影に消えていく。
私はこの街の、夜明けの瞬間が何よりも好きだった。
この街の最後の夜明けを、見届けられてよかった。もう二度と見られないから。
あれだけたくさんいた私の天敵は、この街にはもうひとりもいない。
あの偉大なるお星さまが追い払ってくれたから。
雲の切れ間から、それが見えた。思っていたより小さいけれど、とても綺麗だ。
あと3分で、この街に落ちる。