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Official髭男dism『Shower』歌詞解釈 [後編]

この歌は「僕ら夫婦(家族)になったけど、恋人だった時の気持ちにいつでも戻れるよね」と言い切るには余りある、複雑な感情が描かれています。このストーリー性の高い歌詞を分析して遊んでみます。

(1A-1)
曇った窓に指をはしらせて 雑な似顔絵を描き合った思い出などない
似ても似つかないとケチをつけ
消してもちゃんと残った名画を笑えただろうにな
(1A-2)
困ったことに月日は流れて 周りを取り巻く環境は随分と大人びた
駄菓子やテレビゲームなんてなくても
生きられるような人になんてそうなれるはずないのに
(B)
春の夜風の冷たさのどさくさに紛れて 肩が触れてからのことを鮮明に覚えている
(1サビ)
まるでシャワーのように幸せを浴びせ合ってた あの頃はどうだった?
今は良くも悪くも落ち着きってものを備えながらここまで来たけど
シャワーの後にバスタブの中で立ち上る湯気のようにほら
いつだって僕らはお互いの顔を赤らめることが出来るはずなんだ
そう信じてやまない

(2A-1)

曇った窓を晴らし走る車 電車に揺られた二人の背中を追い越した
昔住んでた部屋の前をうっかり通った時に灯った電気にスピードを落とした
(2A’-2)
6畳のワンルーム でも壁はそこそこ厚く
近くに手頃なスーパーがあって買い物に困らず
コンビニだけは遠く 違う、駅もやっぱり遠く
帰り道に始まる夕飯のおかずウォーズ
(2サビ)
あまりにもマジックアワーと呼ぶことは容易かったし 多分正しいのかな
だけど過去のままごとと比類ないくらいの幸せが今も降り注いでる
シャワーのように垂れ流す季節と衰えていく様の中
どうにか僕らは年甲斐ってものとそれなりに上手く付き合っていられてるから
冷めやることを知らない

(C)
写真を撮ることもなくなって 名前を呼ぶことも減っちまって
あまつさえ目を見て話すことさえ不可能になって
マルチタスクな家事と怒りやすくなった僕に
君はマスクの裏で分かりやすくため息ついた

(3A’)
そんな未来さえ憂いてた 僕たちはどうやら
そんな日々に辿り着くには子供じみすぎていた
(3サビ’)
あの頃のシャワーを今でも浴びせよう ふやけるくらいが多分ちょうど良いや
いつか肌や髪の毛の曲がり角さえも笑いに変えながら曲がればいい
シャワーの後にバスタブの中で立ち上る湯気のようにほら
いつだって僕らはお互いの顔を赤らめることができるはずなんだ
そう信じてやまない
蛇口が開き今日も 笑みがこぼれる

(A’ リプライズ)
曇った窓に指をはしらせて 雑な似顔絵を描き合った思い出などなくても
駄菓子やテレビゲームに囲まれ 変わらないままで
変わったままで 暮らしていこうよ

音楽雑誌『MUSICA』9月号の全曲解説インタビューで、藤原さんはこんなことを言っていました(一部分)。

このアルバムで唯一、歌詞から先に作ってます。『115万キロのフィルム』も歌詞から書きました。でもそれ以来ですかね。詩先はほんと稀です。
この曲は現状の幸せと過去の幸せが引き合いに出されてはいるんですけど、あの頃はあの頃の、今は今の幸せがあるよなと思って。昔は昔で、それはそれで愛おしいんだけど、やっぱりちょっと若々しいというか。ちょっとフォークっぽいところが気に入ってて。それがアコースティックギターとの相性がよかったのかな。

確かに、2枚前のアルバム『エスカパレード』の頃の歌詞は、ちょっとこちらが照れてしまうような若々しさがありましたが、それを「現状の幸せ」の地点から振り返ると、こんなにも豊かな厚みが感じられることに感動しました。

この歌詞の中で異質な箇所(C)、ここは短いながらに激しいメロディとアレンジ、歪んだヴォーカルで構成されていて、ここをこの曲の制作のきっかけと考えることにします。ここでのポイントは「マスク」というワードで、音楽業界が大きなダメージを受けた2020という年を刻んでおこうという決意が見えます。

発散できない、解放できない「怒りやすくなった僕」は内向し、かつての自分に向き合います。遡った時間の出発点は(B)です。「春夜風冷たさ』と「」で繋いで「肩が触れてからのこと」へ持っていくいい一節ですね。夜桜デートでしょうか。「鮮明に覚えている」特別な夜だった。二人が初めて結ばれたのかもしれません。

それからは時々お互いの家に泊まるようになったのでしょう。(2A-1)では、電車で一緒に帰る二人の姿からカメラが引いていくと、車を運転する今の僕の姿に切り替わるというような、映像的な描写です。「昔住んでた部屋」が(2A’-2)で説明されます。6畳ワンルームに二人暮らしは狭いでしょうから、その頃はまだそれぞれ一人暮らしをしていたというイメージです。

どこかで待ち合わせて電車で帰る「マジックアワー」。「曇った窓」というワードも出てくるし、陽が長くなりやや蒸し暑くなった夕方から夜の雰囲気です。「春の夜風」から初夏の頃に季節が進んで、二人で一緒にシャワーを浴びるような、付き合い出してから最も楽しい時期の記憶がサビで歌われます。

このサビは3つあり、これらを並べてみると、「シャワー」をお題にして、過去の記憶を想起し、分析し、現在から未来への意思を確認する、というプロセスになっています。これは私たちが過去を思い出す時の思考の流れです。

(1サビ)の情景描写は写実的で色気がありますが、それが記憶の中で整理され解釈されたものとして表現されています。過去の自分を思い出すとき、気づかなかったことが見えてくる、意味がわかってくる、という経験があります。若い頃は、自分が何者かであるかがまだよくわかっていない。

歳を重ねてわかるようになった自分が、現在の姿を肯定的に捉えたのが(2サビ)です。「僕ら」を見つめ直し前向きな気持ちになってからの(C)、二人の直近のすれ違いはひとときの激情として、コントラストを付けて歌われています。

(3A’)の「そんな未来」とは(C)のことです。結婚生活を積み重ねればきっと喧嘩もあるだろうけどそれは嫌だな、と、現実を知らずに子供じみたことを考えていました。それもまた記憶の中にある自分の姿です。

(3サビ)では現在から未来を想像します。これは、自分の意思でこのようにするんだ、という力の入ったものではなく、きっと僕らはこんな風に歳を重ねるんだろう、と思い描いています。まるで未来の記憶と呼べるような、自分がそうする、そうなることをあらかじめ知っているかのような確信です。

私たちが過去の自分を思い出すのは、己はどんな人間なのだろう、という問いへの答えを探すことであり、それを知っていくことが歳をとるということだと思いました。