[選挙の話]あなたの意見には賛成しないが、政治的である全ての人が私の光なのです
自動車免許の教習所に通っていた時、若くて話しやすい教官が、「妻がFacebookで政治的なことを話すのがどうも嫌だ。そういう人間関係もできれば切ってほしい。政治に言いたいことがあるなら、SNSで文句とかいうのではなく、自分が政治家になるしかないんだから」というぼやきを、なぜか聞かせてきたことがあった。何かの選挙の時期だったと思う。
当時私はおそらくあやふやな反応をして、後から「そう思うなら、為政者に戦争で死んでこいと言われたらあなたが文句を言わず一番に死にに行ってくださいね」と返せばよかったな、とか意地悪なことを思った。今も「ノンポリ」と昨今呼ばれる人たちに対してはそう思ってしまうことがある。
ただ、今では思う。彼が政治的なことを拒否したいと感じるのには、どんな人生経験が、ストーリーが、あったのか。
東京都知事選の、というか「選挙」と「政治参加」の話をしたい。
ただし、本記事では私自身の政治的信条や、投票予定の候補者が誰かという話はしません。右も左もなく全ての人を否定しない内容で書きたいと思っています。
【前がき】疲れるSNSの世界 快適なSNSの世界
初めてパレスチナについて発信した最初のnoteでも言及したが、このインターネット時代、絶対に正しいこと以外は発信してはいけないような気が、常にする。「何かを言っても、自分より頭が良かったり知識があったり、より強い問題意識を持っていたりする人が、わたしのことばや思考の誤りを指摘してくるだろうという怯えや諦めがあった」多くの人が同じように思っている、のではないか。今も。
政治や信条の話はその最たる例だ。
軽い気持ちでつぶやいた140文字が、世界中の日本語圏に羽ばたいていき、右も左も上も下も、玉石混交(返信の数に応じてクソリプの割合も右上がり)のリプライに押しつぶされそうになり、心身ともに疲弊するなんてことも。私はバズった経験はないですが。
とは言いつつも、人が疲れすぎないためにSNSのアルゴリズムが気を利かせて、「趣味や価値観が合う」人の意見ばかりを見せてくれる。そうして「クラスタ」が形成され、SNSが比較的快適な世界になっていく。
例えば私はX(やインスタ)を見ていて、「選挙の話めっちゃ盛り上がってるやんけ!これはみんな投票行くんちゃうか!?」って思うのだが、実際の投票率は半分くらいで。SNSで自分の目の前に現れる世界というのが、私にとって気持ちいいものだけ見せられている虚構であるということを、選挙のたびに思い知る。
1.人間関係がひろがれば、政治的意見も多様になる(当たり前)
私の話をしよう。
ここ数年で人間関係の幅が広がった。特に音楽を通じて繋がる人には、自分が今までの人生では交わらなかったような友人知人も多い。
ご縁があってオフラインで出会い、魅力を感じて、インスタを交換する。
中には、政治的な発言をする人もたくさんいる。
つまり、選挙の時に政治的信条や価値観の違いが顕になる。
これは、彼らが、私が、「自分はこう思う。この立場でこの人を応援する」ということを表明しているからこそなのだ。
当たり前なのだが、私が応援したい候補者とは真反対の候補者を真剣に応援している相互フォローの知人もいる。私が今日言いたいのは、この当たり前さを全員が当たり前として考えるようになれば、すごい世界になるんじゃないか?ということだ。
2.そもそも「政治=怒り」に見えるわけ
アンガーマネジメントを少しかじってみると、人が「怒る」時は、大抵「こうあるべき」と自分が感じているものが他者によって曲げられた時だそうだ。
政治は「こうあるべき」の世界だ。
だから国会中継や政治番組には怒りのエネルギーを感じるし、政治的主張をしているツイートはだいたい「怒っている」(ように見える)し、デモのプラカードの表現も怒りを感じさせる強目の語気をはらむ場合が多い。
「いい大人が熱くなっちゃって。クールに、ハッピーでいようよ。
丁寧に暮らして、目の前のことを楽しんで、周りの人を大切にしようよ。
怒ってる人って、怖いよ」
汗ひとつかかずに、困ったような笑みを浮かべながら、こちらを諫めてくる、いかにも無害な「ノンポリ」の声が聞こえてくるようだ。
確かに、政治的な主張を持つ我々は「こうあるべき」の世界がしっかり見えているぶん、そうでない意見を見ると怒りを感じることがある。本当に真面目に考えている証拠だ。友人知人や家族親戚であっても、政治的主張は多くの場合完全に一致しない。怒りを感じて喧嘩したり、SNS上の繋がりでは「うわ、この人こんな感じなんだ。ミュートしよ」みたいなことになる場合もあるかもしれない。
3.人生経験が違えば政治的主張は違う(当たり前)
しかし私は言いたい。根本的に、人それぞれ生きてきたストーリーが違うのだ。
見てきた世界も聞いてきたお話も、尊敬してきた人物も、何に傷ついたかも、百人いれば百人が全く違うのだ。
だから私たちの政治的意見が一致するわけないし、政治的意見が一致しない目の前の人が悪者だというわけではないのだ。
例えば、私の人生を振り返ってみよう。
両親揃っていて愛のある中流家庭で、女子として育ち、地元の公立学校でごちゃ混ぜな教育を受け、勉強ができたので名門高校に行き、グローバル系私立大学に通い短期留学も経験させてもらい、東証一部上場企業に就職してIT業務に従事し、男性に恋して男性パートナーと暮らし、休みの日はアングラな場所で音楽をやったりする、私。
こんな私という人間が見てきた世界。脳内に構築された私の世界と、「こうあるべき」「もっとこうなれば世界が良くなるはずだ」というストーリー。
私の人生と全然反対側で育ってきた人が見てきたストーリー。
あえて同じ表現を繰り返そう、見てきた世界も聞いてきたお話も、尊敬してきた人物も、何に傷ついたかも、私とは絶対に違う。
何にお金を払えるかが違う。毎月納めている税金がどこに使われるべきかという考えも、何に使われたら怒りを感じるかも違う。
政治的信条だって、そりゃあ違う。
だから今回投票する候補者も違う。
4.全員が違う意見を持つからこそ政治家が必要で、政治が必要
だけど、声を大にして言おう。みんな違ってみんないいんだよ。
もちろん政治的信条としては反対させてもらうこともある。だけど、「正しさ」なんて虚構なのです。自分が見てきたストーリーに基づいて、自分だけの「正しさ」を胸に掲げること。そしてそれを自分の中から出して、外の世界に主張すること。
SNSで言う必要なんてない。応援できる政治家への投票で示すこと。別に百点まんてんの政治家を探す必要なんてない。ってか多分完全にあなたと同じ意見の政治家はそういない。
5.「ノンポリ」であることは、客体的に、多数派に加担する政治参加である
そういう意味では、ノンポリの人にも、ノンポリであるに至ったストーリーもあるのかもしれない。教習所のノンポリ教官は、政治的なことに触れて傷ついたり不快に思った経験があるのかもしれない。
できるだけ、そんな個人のストーリーも否定したくない。けれど、残念ながら、政治に参加しないつもりでいる人々は結果的に多数派に投票するのと同じことをやっている。選んでいるつもりはないのだろうが、結果的にはそれを選んでいる状態になる。
どんなに政治から無縁でいたいと思っても、この世界では他者との共生が必要で、その共生のためのルールを政治が決めている。政治から逃れることは、この世界に生きているあなたが、あなたの全ての自由やあなたが思う「正しさ」を、他者に完全に委ねてしまうことになる。
「生殺与奪の権を他人に握らせるな」とは『鬼滅の刃』、アニメでは第一話での冨岡義勇の言葉ですが。
毎日飢えず安らかに平和に、政治と無関係で暮らせているように見えるけど、この生活は政治によって規定されたものであり、簡単にひっくり返ることを忘れてはいけない。あなたが立っている地面だって、政権が変わればひっくり返されて、大穴に真っ逆さまに転落させられる可能性がいつだってある。
「生殺与奪の権を他人に握らせるな」です。
【最後に】政治的である全ての皆さんは私の光です
最後に、私のSNSのフォロー・フォロワーで、選挙の話をしている皆さん。
応援している人が誰でも構わない。あなたの「正しさ」を私に見せてくれて本当にありがとう。私はあなたの意見には完全には賛同しないと思う。だけど一緒にこの世界に生きて、正しくあろうとする、あなたの光を頼りにしています。
選挙に行こう。明日が本番ですが、まだ期日前投票も。
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