【長編小説】『薫香の女君』第8話(終)「餞別と成長~桜の香りと共に~」
夕闇の頃、一角とぼうが、旧宮(平城京)より帰ってきた。
「ただいまあ。」
「おかえりなさい、ぼう。お寺や仏様を見れた?」
「うん。とっても広いお寺や、おっきなほとけさまがたくさんいて、とてもきれいだった。たくさんのおぼうさまが、おきょうをお唱えしてすごかったよ!!」
「良かったのう。ぼう!!楽しかっただろう。」
我が子の帰りを今か今かと待っていた青黒は、ぼうをすかさず抱っこする。
「腹減っとるだろう。夕飯できとるぞ。」
「あのね。お寺にたくさんの龍の絵もあったんだよ。どの龍もすごかったけど・・・。やっぱり、おうおじちゃんの龍がかっこいいや。」
ぼうの褒め言葉に、王龍も満面の笑みで、その愛しい童の頭を撫でる。
三人が笑顔の中、一角が、やや暗い面持ちを浮かべていた。
「一さんもお疲れ様。ぼうがあんなに笑顔になって、一さんのおかげだよ。」
「はい。私も嬉しい限りです・・・。」
微笑みを返しつつも、一角の瞳には、暗い光で揺らついているように、愛は、感じた。
住まいに入ってから眠りにつくまで、ぼうは、興奮冷めぬまま、一角の背から見てきた景色や、旧宮の華やかさ、お寺や仏像の凄さを話し続けた。
小さな寝息を立ててぼうが眠った後、一角は、愛、青黒、王龍を居間に集めた。
「どうしたんじゃあ。一。改まって、わしらだけで話しなんて。」
「帰ってきてから、元気がないが。何かあったのか?」
二人が珍しい様子の一角を気付かう中、愛は何となく、一角が意を決してこれから暗い瞳の訳を話すように察した。
「実は、今日の節分の準備と同時に、薬師の大寺の後継人を決める儀式も、執り行われたのです。この後継人として選ばれた僧侶は、定期的にこの国から渡航する唐の宝薬峰寺の修行へ許されるほど、重役の身となります。宝薬峰寺は、薬師の大寺の総本山。世界の医療や仏事の中枢を担っており、旧宮の薬師の寺は、そこで新たな医療や祈祷の修得を得て、この国に持ち帰るのです。
ただ・・・今回、数多くの候補者がいながらも、儀式にて、ご住職が望む、後継者に相応しい人は、見つからなかったのです。」
「そのご住職って、確か以前、ぼうを養子にしたいってお願いされた方のこと?」
「ええ。ご住職には、今も多くの優秀なお弟子が仕えられているのですが・・・ご住職も、だいぶん歳を召されているので、今回の渡航を最後として、唐では、住職としての後継のみでなく、秘法の行、つまり徳の高い後継人しか授からない知識や行の方法も伝授するおつもりなのです。」
「宝薬峰か・・・確かに、あそこは、太古より、豊かな水や、ありとあらゆる薬草が生えておるからのう。昔から、薬や医療を司る仙人や聖人もいたことは、覚えとる。」
昔の故郷である王龍は、ぼそりと言った。
「長い話は良いから、それより、そこでなんかあったんか?」
図々しくも、愛の膝枕で横になっていた青黒は、話の続きが気になった。
「私もぼうも、儀式の間は、読経や法話を聞いていたのだが。準備の手伝いを終え帰る前に、ご住職に呼び止められて、お願いをされたのだ。」
「お願いって?」
愛の問いに一瞬、一角は口を閉じた。しかし、すぐに真実を口にした。
「『ぼうを、後継人にしたい』と」
「はぁ?なんじゃ、それ?」
「ご住職は、今回の儀式にて、秘宝の行を修得するに相応しい人材を見つけ出せなかったのだ。秘宝の行は、真に純粋な精神と弛まぬ性根を備えた者でなければ伝授ができない。どんなに優秀であっても、そう容易に、後継人は務まらぬのだ。」
「だからと言って、その住職さん、何をもってぼうを選んだんじゃあ。」
一角の言葉に、体を起こした青黒は、少々吠え気味で問う。
「まさかお前、仕事中、ぼうを一人にさせとったんか?」
青黒に向けた一角の瞳は、厳しい目つきに変わり、反論する。
「安全のために、ぼうは常に私の傍に居させた。私が経典を書き写しする時も、ぼうが退屈しないように、筆を貸して、経典の文字の書きとりをしていのだ。
ご住職が儀式を執り行う前に、私たちのもとへご挨拶をしてくれた際、ぼうの字を目にし、魅かれるものを感じたらしい。」
「さっぱり分からんわ。ぼうの字に、何を感じたって言うじゃあ。」
次第に青黒の声が不機嫌になる。何となく、嫌悪な空気に感じた愛は、一角に聞いた。
「ぼうの書いた字って?」
妻の問いに、一角は、懐から1枚の半紙を出して広げた。
半紙に書かれていたのは、『慧』
縦から横のとめ、「心」のはらいまで、しっかりと滑らかな書体で書かれている。
「きれい。」
「おお、見事な字じゃ。」
「ぼうが?これを?いつ間にこんなに立派な字を。」
新年の書き初めよりも、いつの間か、達筆になっていたぼうの成長ぶりに、愛、王龍、青黒は息を呑んだ。
「この『慧』は、無限の知を表すもので仏の字でもある。私も教えていなかったのに、ぼうは見ただけで、初めてでもこんなに見事に書けるようになっていたのだ。」
愛は一角と共に、時折夜な夜なぼうが一生懸命に書き取りの練習に励んでいた姿を見守っていたことを思い出した。
「ご住職は、ぼうの字を見て、迷いのない純粋な志をもった人格と、見いだした。ぼうの生い立ちや現在私たちと暮らしていることも話したが、人あらざるものと生活を共にできるぼうは、前世の徳があるとも住職は話された。」
「そんなこと言っても、坊さんなるためには厳しい修行を積まければならんのだろう。ましてや、秘技の法を伝授とするとなると、相当な年月がかかるのではないか?。」
顔をしかめた王龍が言う。
「もし、ぼうが修行するとなったら、会えなくなるかもしれないってこと?」
愛が一角の話を聞いて以降、感じた不安を口にすると、一角は頷いた。
「ええ。大切な家族であっても、僧侶になるためには、世俗とのつながりは断たねばなりません。」
「そうじゃのう。いくら、わしらが唐へ行けても、修行する者の邪魔をしてはならん。ましてや、宝薬峰は特別な結界が張られていて、嵐も多く、並大抵の人間が容易く行ける場所ではない・・・。昔から、あの峰の薬草を求めて、多くの者が登ったが、生きて帰った者はそうそうおらんぞ。」
二人の言葉を聞き、愛は、次第に空気が重くのしかかっているように感じた。
「ふざけるな!!」
遂に、青黒が立ち上がって、声を荒げた。
「偉いご住職さんであっても、わしは、反対じゃ!ぼうは、今まで辛い目にあって、わしたちと暮らして、やっと、やっと、笑顔になってくれたというのに・・・。今度は、お坊さんになるために、遠い唐まで行き、修行を積むじゃと?わしは、絶対に認めん!!」
「だが、ぼうが後見人にならない限り、薬師の大寺の存続はおろか、この国の医業を司る役割もなくなってしまうのだ。今この国に散在する、怪我や病を治す寺院を統治する任務、それに、深刻な疫病を防御するための祈祷を常に執り行っているのも薬師の大寺だ。この寺の役割が途絶えたら、この国のありとあらゆる人びとが怪我や病で困窮する。
ご住職も、私たちの大事なぼうを引き取ることを深くお詫びされながら、それでも頭を下げられたのだ!」
「そんなこと言うても、ぼうにはぼうの人生があるんじゃ!!」
冷静に、だが口調は厳しくも話す一角に、青黒は吠える。
「ぼうは。ぼうは、何て考えているの・・・。」
諍いが深刻にならないように、愛は二人の間を遮ろうとした。
「ご住職はぼうと少し話がしたいと言うので、私は少し場を離れたのだ。 ここに帰るまで、ご住職がぼうに何を申されたのは私も知らない。ただ、ぼうに、どうしたいのか聞いてみた。」
「ぼうは、何て?」
「『お坊さんになりたい。』と・・・。」
「おい!! 一!!!。」
さらに大声で青黒は怒鳴った。一角に向けられたその形相は、次第に鬼に変わりつつある。
「勝手にぼうから離れて。何が安全じゃあ?ふざんけんな!!お前、ぼうが可愛く無いんか!!!。」
青黒の言葉に、一角もさっと立ち上がった。麗しき瞳を激しくつり上げて、
「私だって、お前よりも、ぼうを大事に思っている!!しかし、ぼうが決めた以上、私だってどうすることもできないのだ!!!」
「んだと!!!」
青黒は、遂に一角の胸ぐらをつかんだ。一角は己の胸をつかんだ青黒の腕をつかみ返す。二人共、激しく睨み合あった。
「黒さん!!一さん!!」
「やめい!!二人とも!!ぼうが寝ているのじゃ!!」
愛は声で、王龍は二人のつかみ合った腕をぐゎんと放した。王龍の力により引き離された二人だが、まだ激しい睨み合いは続く。しばし、居間に沈黙が流れた。
どうすれば、この重い空気を鎮めることが出来るのか・・・愛は少し考えて沈黙を切った。
「とりあえず・・・。とりあえず、明日、ぼうに聞いてみよう。ぼうがどうしたいのか。」
「そうじゃ。その方が良い。今日はもう遅い。早く休もう。」
王龍が間に立たなければ、今にもまた争いそうな二人は睨み続ける。
「わしは絶対に反対じゃからな。」
青黒は一角に吐き捨てるように言うと、ぼうの寝床に向かった。
「勝手にしろ。ぼうが決めたことに私は反対しない。」
静かに言い返しする一角の瞳は怒りに燃えつつあった。
星の小さな光が山を照らす中、四人の大人は、複雑は思いで眠りにつくことができなかった。特に愛は、ぼう、そして、青黒と一角の仲が気になり続け、容易に目を閉じることができなかった。
もうすぐ節分を迎える翌朝。
王龍が準備した朝食を、五人は静かに囲んだ。青黒と一角の間に王龍が、愛はぼうの横に座る。
本来なら各々の仕事がない日は、ゆっくりと笑いながら朝食をとるのだが、この日ばかりは、青黒と一角は、昨晩と変わらない状態だった。
「どうして、みんな、お話ししないの?」
大人たちの静かさに不思議そうに聞くぼうの純粋さに、青黒と一角は黙りつつも、互い似たような困惑の表情を浮かべる。
『このままじゃあいけない・・・。』
愛は意を決して、ぼうに聞いた。
「ねえ。ぼう。お寺のご住職様とどんなお話ししたの。」
「えーと。あのね。『そなたが好きなのはなんじゃ。』って、おじいちゃんのおぼうさまにきかれたの。」
「何じゃあ。その問い。ぼう、何て答えたんじゃ?」
黙りこくる二人の代わりに、王龍はぼうに問う。
「えっとね。えっとね。『ぼくは、くろおじちゃん、おうおじちゃん、いちにいちゃん、まぁおばちゃんと毎日、お手伝いしたり、読み書きしたり、おはなしを聞いたり、ご飯を食べることが好き。』って言ったの。そしたら、おぼうさま笑った。」
嘘偽りのないぼうの「好きなもの」に、住職も微笑ましく感じられたのか。
ぼうにとって、各々が大切な存在であることに気づいた青黒、一角は瞬時に気まずい表情に変わった。
「それからね、おぼうさまはね、『そなたが大きくなったら、何をしたいのか。』ってきかれたの。」
住職の本心による問いに、一同、シンとした。
「なんて、答えたの?」
ぼうは、堂々と答えた。
「僕は、おじちゃんたちや、まぁおばちゃんに『恩返し』したいって答えた。」
「ぼう・・・。」
黙っていた青黒が口を開いた。
「その偉いお坊さんは、ぼうをお坊さんにさせたいんじゃ。お坊さんになるためには、辛い修行をせんといけん。それに、わしらにも会えなくなるんじゃぞ。」
「うん。くろおじちゃんと同じこと、おぼうさまも言ってた。」
ぼうは、真正面から答えた。
「でもね、ぼく、たくさん読み書きを習って、まぁおばちゃんみたいに、たくさんの本を読んで、いち兄ちゃんみたいに、たくさんのこと知りたい。それに、くろおじちゃんやおうおじちゃんみたいに、困っている人を助けたいんだ。」
ぼうは、一息ついて大人たちに言った。
「ぼくの死んだばあちゃん、病で「苦しい。苦しい。」って言ってたの。ぼく、ばあちゃんを助けてあげることができなかった・・・。だから・・・だから、ぼく、頑張って修行して、病で苦しむ人を助けるおぼうさまになりたい。ぼくがおぼうさまになったら、まぁおばちゃんやおじちゃんたちが病になったら、助けてあげることができる。」
「ぼう‼︎」
思わず、愛は坊を抱きしめた。
幼き童の、自分たちを気遣う心優しさに、夜な夜な眠れなかった不安が愛の心中で爆発したのである。
「まぁおばちゃん、ぼく、がんばって修行して、お話してくれた、困っている人を助けるおぼうさまになるね。」
にっこりと迷いのない笑顔で返すぼうに、愛は抱きしめたまま涙が溢れた。
いつの間にか、立派に成長していたぼうの姿に、一同は心を打たれる。
「ぼう。わしらのこと思ってくれて、ありがとうのう。」
ぼうの志に感服した青黒は、すぐさまぼうと愛をひっしりと抱きしめた。
「本当に。よく言った、ぼう。さすが、我々の童じゃあ。」
王龍は、いつもの威勢の良い声で、ぼうの頭をガシガシと撫でる。
一角は、沈んだ瞳でぼうをみつめ続けた後、一人黙って、縁側に出た。
「いちにいちゃん。」
青黒の腕から離れて、ぼうは一角のそばに駆け寄る。
「いちにいちゃん。どうして悲しい顔しているの?どこか痛いの?」
一角の着物の袖を引っ張りながら、悲しみに潤ませる瞳の一角を不思議そうに、ぼうは見つめた。
「ぼう・・・。」
一角は、それ以上言葉を返せなくなり、珍しく、愛しき童をさっと抱いた。
「いちにいちゃんのにおい、ぼく大好き。」
ぼうはまん丸い笑顔で抱き返す。
二人のそばに、愛、青黒、王龍も寄り添った。薫衣草、麝香、シトラスの香りが周囲を漂う。
「ぼく、くろおじちゃん、おうおじちゃん、それと、まぁおばちゃんのにおいも大好き。」
純粋な童の瞳に、皆、喜びと悲しみに瞳を潤ませた。
ぼうの出発が桃の節句を迎える前日と決まると、四人は、ぼうとの残りし日を普段と変わりなく、それでいてさらに大事に過ごすようにした。
一触即発になりそうな青黒と一角の仲も、言葉なくても許しあったのか、住まいでは、いつものように家事を協力するようになった。(たまに、軽い言い合いもあったが、ぼうの「仲良くしないとだめ。」という言葉に、両者苦笑いすこともしばしばだった。)
寒さが少しずつ和らぎ、住まいの庭には、いつの間にか白や薄紅を重ねた花弁の沈丁花が咲き誇り、凛とした甘い香りで辺りを包む。庭の白梅や紅梅の蕾も、ひとつまたひとつと、日に日に綻び始めた。
王龍は、ぼうと家事や村の手伝いをする他、時折、本来の龍の姿になり、ぼうを乗せて空を飛んだ。普段は、危険であまりにも目立つからと、ぼうが背に乗せて欲しいとねだっても断っていた王龍だが、薄水色の晴天には、己が背に乗せて、王龍は、広々と空を泳ぐ。晴天に、ぼうの喜びの声が響いた。
一角は、僧侶となるために必要な漢字の書き取りや、医業に用いるハーブや薬草を少しずつ教えていく。ぼうが書き取りなどを頑張る一方で、一角は、夜な夜な、経典や薬の教本をぼうが分かりやすいように書き換えて、ぼうに渡した。
「ぼくの本だ。」とぼうの喜びに、一角も瞳を細くさせる。
青黒は相変わらず、仕事以外の時は、べったりとぼうにくっついては、遊んだ。
たまに帰りが普段より遅くなる時もあったが、帰ってきても、平然とぼうと愛をひっしりと抱くことは欠かさない。
愛も、ぼうとの別れを惜しみつつも、何かぼうが喜んでくれることはできないか、しきりに考える。普段は、宮で流行りの物語や自らが作ったお話を楽しみにするが、何かもっと、最高の贈り物はないか、深く深く思案した。
「ねぇねぇ。桜ってどんなお花?」
ぼうは、お話に出てくる桜の存在を気になっていた。
「何色しているの?いいにおいするの?」
「そうね。色は、薄桃色や桃色・・・匂いは、ないものが多いかしら。」
「ふ〜ん。見てみたいなあ。」
村では桜の木がほとんどなく、そうでなくても花の美しさを知らなかったぼうは、目を輝かせる。
ぼうに、住まいの山に咲く桜を見せてあげたい。だが、その桜が咲く前にぼうは旅立ってしまう・・・
「何か良い案ないかな。」
仕事の合間、ひっきりなしに愛は思案した。ふと、賑やかな声が聞こえたので、声にする方に向かうと、同じ仕事場の女性たちが、赤や青、黄色の紐を用いて組紐を作る遊びに興じていた。
少し眺めて、ある名案を思いつく。
住まいの庭には、ミントやオレガノの葉が、寒さに負けじと緑色に土を敷き詰め、白や黄の水仙は、甘い香りを放ちながら色鮮やかに咲いている。
ぼうが旅立つ朝。
本来ならば、誰よりもぼうを可愛がっていた青黒は、「少し出かける」と言い、住まいを出た。
まばゆい朝日が住まいを照らす中、残った大人たちは、ぼうとの別れを惜しんだ。
「全く、あの鬼は。どこまで行ったのでしょうか。もうすぐ、時刻がくるというのに・・・・。」
珍しく苛立ちを言う一角は、ぼうがどこでも読めるように、小さき教本をまとめて、紫色の風呂敷にもたせた。
一角が整えた黒い着物に身を包み、ぼうはこれからの旅路に瞳を輝かす。
「修行や唐への旅は長い。これを食べて、身体は大事にするんじゃぞ。」
王龍の渡す包みの中には、おむすびや漬物、玉子焼きを始め、甘い干し芋と干し柿、蜂蜜やハーブを練り込んだ焼き菓子や飴、それから、ぼうが気に入っていた花びら餅も入っている。
「これらは全て、お前が頑張って畑仕事を手伝い、収穫できたもの。村の人びとのことのも、忘れるんじゃないぞ。」
王龍の言葉に、ぼうは大きく頷く。
「うん。ぼく、村の人びとのことぜったいに忘れない。畑仕事も、料理も、掃除も、洗濯も、おうおじちゃんとしたこと全部楽しかった。ぜったいに忘れないよ。」
ぼうの言葉に、王龍は大きな掌でぼうの頭を、いつものように、さらに愛おしくガシガシとなでる。
「修行の道は、大変じゃ。だが、ぼう、お前ならぜったいに素晴しいお坊様になれる。この襷はわしが使っていたのものじゃ。何か作業をする時に使え。」
そう言いながら、丁寧にたたまれた薄茶色の襷をぼうに手渡した。
「ありがとう!!おうおじちゃん。」
「ぼう。」
愛はまず、ぼうを優しく抱きしめた。そうしなければ、今にも自らの目から涙が溢れそうになるからだった。
ぼうとお別れする時は絶対に泣かないと、前日から心構えしていたはずなのに、どうしても、これから旅立つ幼き童を前にすると、住まいにぼうが来てし日々が愛の頭の中を駆け巡る。
「まぁおばちゃん。苦しいよう。」
ぼうは嬉しそうに、困ったように笑う。
「これ、私から。あなたに。」
愛は我を取り戻して、ぼうの両手に贈り物を渡した。ぼうの両手にのったのは、薄桃色の花の組紐をつけた小さき紙の栞。さらに栞の紙からは、心くすぐる甘酸っぱい香りがする。
「かわいいお花だね。とってもいいにおい。」
「これ、桜のお花の形なの。匂いは、『トンカビーンズ』ていう遠い南の国にある木の実の匂いでね。桜の花みたいな匂いとも言われているの。」
「とっても嬉しい。まぁおばちゃん、ありがとう!!」
まん丸い笑顔で今度はぼうが、まなを抱き返した。愛は再び涙が溢れ落ちそうになったので、顔を上げる。
「ぼう!!」
大声と共に、青黒が1本の枝を手にして帰ってきた。
「ぼうにどうしても、これを渡したくて・・・。」
少々息を切らした青黒がぼうに渡したのは、栞の組紐と同じ色をした薄桃色の花々の一枝。
「もしかして、この花、桜?」
「もう咲いていたのか。知らんかったわ。」
「よくもまあ、見つけたましたね。」
驚く三人に、青黒は得意げにニッと笑った。
「この山の中で、毎年早くから花を咲かす桜の木があってな。どうしても、ぼうに見せてやりたくって・・・もっと早く花が咲くように、水をやったり、陽の光がよく当たるように、周りの木の枝を切ったりしておったんじゃあ。寒い日がここ最近続いとったし、なかなか咲かんから、心配だったんじゃが。今朝見に行ったら、やっと咲かせてくれてのう。」
少し肌寒い風でも、可憐に、薄桃色の五枚の花弁を揺らす桜の花は、見事な美しさ。
「これが桜かあ。とってもきれい。」
桜に瞳を星のように輝かせるぼう。
「くろおじちゃん、ありがとう!!」
ぼうの笑顔に、青黒はがばっと抱きしめた。誰よりも、我が子のように愛しむ青黒も、本当は泣きたい気持ちでいっぱいなのだろう。抱かれているぼうには見えなかったが、潤ませたその鬼の目をにっこりとして、ぼうをひっしりと大事に抱く。
「ええか。わしは、どんなことがあっても、ぼうの味方じゃあ。もし、苦しい時、辛い時があったら、いつでも大声でわしを呼べ。唐だろうが、どんな所だろうが、わしが駆けつけてやるから、なっ。」
何度も何度も愛おしい童を抱擁する青黒の姿に、一同涙をぐっとこらえる。
「では、そろそろ、参りましょう。」
一角は、さっと神獣の姿になった。
ぼうは、たくさんの宝物を携えて、一角の背に乗る前に、愛に聞いた。
「ねえ・・・ぼく、立派なお坊様になれたら・・・またここに帰ってきていい?」
まん丸い瞳にじっと見つめられた愛は、微笑んで、答える。
「もちろん。みんな待っているよ。」
ぼうは満面の笑みで一角の背に乗った。
「行ってきます!!」
大きな声と共に、ぼうは一角獣と空高く昇る。地に残った三人は、力いっぱいに両手を振り続ける。
「いつかきっと・・・待ってるから。」
青黒、王龍を共に、一心に両手を振り続ける愛。
と、その時に愛の頭の中で、ある光景が閃光の如く駆け巡った。
「先生!!俺、待ってるから。先生が戻るの、待ってるからあ。」
令和時代。白くて高い建物。高い窓から、ぼうと同い年ぐらいの男の子が、必死に、愛に向かって叫んで両手を振る。地にいる愛は、ただ黙ったまま、手を振ることもせず、その場を走り去った。
『この光景は、・・・。』
愛は、頭の中の光景が、何となく前世の記憶だと感覚的に感じ取った。
「まぁ、まぁ!!」
青黒の声に、ふと我に返ると、いつの間にか、閃光のような記憶の光景が見えなくなった。
「調子、悪いのか。顔色が悪いように見えたが。」
王龍も妻の変化に心配する。
「大丈夫よ。ぼうがいなくなるのが、寂しいだけ。」
そう言う前から、ぼうとの別れ、さらに先ほどの記憶の光景から、愛は次第に心の底からこみ上げてくるものがあった。
遠く、遙か遠くまでぼうの姿が見えなくなると、愛は、王龍の手を握り、青黒の胸で、心の底から溜めていた涙を、思いっきり流す。
王龍は、大きな掌で優しく妻の頭を、青黒は愛おしく妻の背中を撫でた。
しばらくして、一角が帰ってきた。
「薬師の大寺に着き、私も、ぼうへ餞別の品を贈りました。
『ぼく、頑張る。』ぼうは、そう言って、ご住職が待たれる本堂の門をくぐって行きました。本当に、堂々とした姿で・・・。立派な後ろ姿だった。」
冷静にぼうとの別れの様子を話す一角も、その瞳は必死に別れの悲しみに耐えている様子だった。
愛は、何も言わず一角を抱きしめる。青黒と王龍も、寄り添い、愛おしい家族との別れに悲しまずにはいられなかった。
ふんわりと甘い麝香(ムスク)、陽の光のように強く爽やかな柑橘(シトラス)、安らかで清々しい薫衣草(ラベンダー)の香りに加えて、愛がぼうに渡すまでひっしりともっていた栞の甘酸っぱいトンカビーンズの移り香が、四人の空間を一晩中満たした。
やがて、夜が明け、悲しみに沈んだ四人の住まいに、また朝日が照らす。
『ぼうに恥じないよう、己も頑張ろう。』
各々同じことを胸に秘め、日々の勤めに向かう。
住まいの居間には、青黒が咲かせた早咲きの桜の花を飾り、その花を眺めては、ぼうとの過ごし日々を皆懐かしんだ。
今や、白や薄桃色の桜が、住まいの山をいっせいに彩る春の夜。
四人は、満月の光に魅かれるように、縁側にて晩酌をした。春のつんとした香りに包まれた、白く丸い満月は、辺り一辺を照らす。
「きれい・・・。」
愛は満月の光に酔いしれつつ、旅立ったぼうを思い出した。
ぼう、元気にしているのだろうか・・・。
愛がそう思っている最中、
「あのまん丸い満月。何だか、ぼうにそっくりじゃのぅ。」
愛の膝枕で青黒がおもむろに言った。
手にした杯には、桜の花びらを浮かべる。
「お、黒。お前も、わしと同じこと思っとんたんか。」
愛の左肩に少々もたりかけるように、瓶子に入れた酒を吞む王龍が言う。
「奇遇ですね。私も同じことを考えていました。」
愛の右側にそっと寄り添う一角は、静かに微笑む。
「この月、ぼうもきっと眺めているよね。」
妻の声に、夫三人はにっこりと頷く。
いつか、今度はぼうも一緒に・・・
愛の浮き立つ願いは、春風に乗り、夜空に昇る。
穏やかな夜を迎えし四人の住まいには、甘く芳しい春の香りが、辺りを包んだ。
(終)
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