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【長編小説】『薫香の女君』第4話「麝香と薔薇の闘い」

 いつの間にか、山の緑深い色が赤、黄、橙の暖色に変わり、賑やかな蝉の声も、夜の清々しい虫の合唱に変わった。

 月ではなく、秋の星々が空高く昇ったある夜。
愛(まな)は、いつものように書き写しの仕事を終えて、邸の門を出た。今、写し書きしている物語も、作成者の女官が新たな章の書き途中らしく、前ほど忙しくない様子だった。

 邸の近くから、おしろいのやさしい、なじみのある香りをすぐに感じた。
「お疲れさん。まぁ。」
牙がチラリと見える笑みを浮かべ、鬼の夫、青黒(しょうこく)が妻を待っていた。
 日中にも、その身体からは麝香(ムスク)が香るが、夜はさらに、はっきりと感じられる。
「ありがとう。黒(くろ)さん。」
 妻の笑顔に、夫の顔はさらに、甘美な笑顔になる。
 首には数珠を首飾りのように何十もかけて、獣の着物を纏い、腰は帯の替わりに鎖を巻いている。その腰には、刀が数本。片手には、黒金に輝く棍棒を担いでいる。
 青黒は空いているもう片方の腕を、妻の肩に回す。ふんわりと、さらに麝香の香りが愛を包む。

二人は寄り添い、いつもの帰り道を歩いた。


 途中、青黒は棍棒を担いだ手を懐にいれ、煙管をだした。歩きながら、妻の肩から腕は放さず、青黒は器用に煙管に口をつける。
 ふぅ~と吹かれた煙からは、トロンとした甘みのある香りがした。
「良い香り。」
「お?あ。すまんすまん。なるべく、まぁの前では吸わんようにしとったが、ちょっと吸いたくなってのぅ。」
「気にしなくて良いよ。何の香りなの。」
「乳香(フランキンセンス)じゃ。まっ、ある国じゃ、神さまのお供えにするところもあるが。わしは、こんな風に吸うのが好きでの。」
 平安の国では、まずない香りだろう。しかし、人離れした存在の青黒なら、珍しい香りをもっていてもおかしくはない。
 愛は、すぐ間近で煙管を嗜む夫の妖艶な顔に見とれた。鬼であっても、こんなに素敵な男は、どこをどう探してもいないだろう。今さながら、夫の美しさに惚れ惚れする自分がいた。

「それにしても、蔵王や氏神のやつ、腹が立つのぅ。」
 独り言でもあっても、愛の耳に聞こえるぐらい、青黒はぼつりと言った。
「蔵王?氏神?」
「あ?あぁ。大宮やでっかい寺に仕えている奴らのことよ。ここの世界じゃあ、帝や偉い貴族に仕えているから偉そうにしているが。
 今日、馴染みの童が、宮の検非違使に捕えられてしまうのう。「ぼう」と、わしは、呼んどるんじゃ。生まれてから父母がいなくて、遠い縁の老婆と二人暮らししとるんだが、その老婆も流行病にかかってしもうて。
 わしも、一(いち : ひとづの)に頼んで薬や、王(おう : ワンロン)の作った飯、届けたんだが、そこに住む地主が、やれ大宮への年貢じゃあ、献上のものをよこせじゃあって、しつこい奴で。もともとその地主、ま、天皇に仕える貴族と親族だとか偉そうにしているんで、わしも、目はつけていたんだが。
 今日、その地主とこの年貢米が少なくなったという理由だけで、すぐ近くに住むぼうを疑ったのよ。昔、どうしても身体の弱い老婆のために、ぼうが、献上の野菜をちょびっと盗んだことがあったから、疑われても仕方ないんだが。その時、ぼうの盗みを見つけて、叱ったのがわしなんじゃ。ぼう、『絶対に、何があっても盗みはしない』って、目にいっぱいの涙で、わしや地主に何遍も謝って。わしも、こいつなら、もう同じ過ちをせんと確信した。 今回の盗みも、明らかに別の者あるいは地主がしとるんじゃろうが・・・。
 今日、蔵王にえらいからまれてのぅ。ちょっとけんかしたその後に、盗みじゃって、騒ぎになって。わしが、すぐに盗みがあった時に駆けつけとけば・・・。ま。まぁは、心配せんでえぇ。悪い奴は、蔵王と地主ってことは、分かっとる。」
 青黒は、煙管から吸った煙を、ふぅと夜空に向けて吹いた。それから、愛に向かって、にっこりした笑顔で、
「まなをウチまで送ったら、わし、ちょっと、地主や蔵王と話つけてくる。なぁに、心配せんでえぇ。すぐ帰る。」
「え?え、でも・・・。」
話を聞いて、すぐに全てを理解をしたわけない。でも、夫の身に何かあったら、と言う不安だけは、瞬時に愛には分かった。
「大丈夫じゃ。わしのことはどうってことない。それに、わしが帰ったら・・・。」
帰ったら・・・。何だろう。
「思いっきり、抱いてくれんかのぅ。王(おう)や一(いち)よりも強く。なっ。」
屈託のない夫の笑顔に拍子抜けしたが、それでも、愛は頷いた。
「でも、やっぱり心配。」
妻の心配に、青黒は、愛おしい笑顔で妻を抱き寄せた。
「大丈夫じゃ。」
 麝香の香りが愛を包む。甘く優しく、その香りに陶酔しそうな心地になった。


「相変わらず、仲の良いことだな。」
 どこからともなく、男の低い声が聞こえた。すぐに、夫婦は声の聞こえた方に目を向ける。
 そこには、青黒よりも背が高い、男が立っていた。長く黒い羽織を着ているためか、闇に溶け込むぐらいの存在であったが、その様子は、星明かりだけでも分かった。

「なんじゃ。蔵王。やはり、わしらの後つけとったんか。」
 既に分かっていたのか、呆れた顔で、青黒は、男に向かって話した。
「わざわざ、てめえが俺の所に来なくてもいいように、俺が出向いたまでだ。ありがたく思え。」
 一歩ずつ、その男が歩むと同時に、その姿が露わになった。
 姿は、人間の男であった。黒い羽織を纏い、藍色の着物を着て、金色の帯を締めている。黒い長髪を束ねず、前髪を含め全て後ろへ流している様子だった。青黒よりも遙かに背は高く、身体も見るからに大きいようだ。
「そいつが、てめぇの女か。特段、美人じゃねぇな。」
 からかうようにいう男の顔は、すっとした高い鼻筋、あざ笑うような笑みを含んだ口元、それから鋭くも憂いを含んだ瞳。明らかに整った顔立ちである。

「地獄の鬼を虜にし、夫にした女と聞いていたから、どれほどのいい女かと思っていたが・・・俺の見当外れといったところか。」
 私のことを悪く言っていることは分かりつつも、笑って話すこの男。何だか、夫とは異なる香りがする。華やかな花のような・・・。
 愛はそう思っている間に、青黒は、言い返した。
「おい蔵王。わしの妻は天下一、ええ女じゃ。まぁのことは、悪く言わんといてもらいたいのぅ。」
 さりげなく、愛を自分の背中にかばいつつも、冷静に言う青黒。その顔は半笑いしつつも、目だけは、愛が見たことないくらい、ぎらついていた。

「蔵王よ。それよりも、ぼうは、どうしたんじゃ。お前が邪魔せんかったら、検非違使よりも先に、わしがぼうに話を聞いたんだが。お前とのけんかの後、検非違使の邸に行ったら、結界が張られて入れんかったわ。どうせ、氏神と手を組んで、地主に雇われたんじゃろ。」
「俺とあいつを一緒にするな。胸糞悪い。俺は地主の頼みで、お前を邪魔しただけだ。童を連れて行ったのはあいつだがな。ま、あいつもあいつで、今回は、検非違使に雇われて動いていたようだが・・・。」
 蔵王は、冷笑をしつつも、眉間にしわを寄せた。氏神とは、また犬猿の仲なのか。愛は青黒の背中に寄り添いつつも、黙って、蔵王を見た。

「それにあの童、検非違使にこっぴどく仕打ちされたから、当分は盗みはおろか、動くこともできんだろう。あれだけ殴られ蹴られたら、悪さをしたらどんな恐ろしい目に合うかを、身体で分かっただろうし。」

「お前っ。ぼうが殴れるの、ただ見とったんか」
 蔵王の言葉に、急に青黒の態度が一変した。
 手にしていた棍棒を、ぎゅうっと握りしめ、肩を張り、吠える鬼。その顔は、牙をむき出しにして、ぎらぎらと怒りに満ちた目に変わっていた。
「俺も氏神も手は出してないが。あの童だって昔盗みをしたのだから、地主に利用されても仕方なかろう。幸い、命あるだけでもありがたく思わねえとな。ま、婆々のいるぼろ屋まで帰れる体力があればの話だが。」
 怒りに満ちた青黒は、いったん愛に振り返り、そっと抱き寄せた。
「まぁ、悪い。ちょっと、あっちの離れた小屋の陰で隠れといてくれ。わし、あいつとここで話つけるわ。」
「で、でも。」
「ええから、な。」
もはや鬼の形相に戻りつつある青黒は、愛だけには、瞬時に親しみのある笑顔で、微笑んだ。
 夫の言うことを聞くため、愛は小さく頷き、少し離れた邸の壁に身を潜めた。壁越しで、夫の姿をそっと見守る。



「地獄じゃ散々、童だろうが女だろうが、残酷な拷問し続けていた鬼が、ここまで心変わりするとはなあ。獄卒の任務から外されて、こんな現世で夫婦ごっこに戯れるまで落ちぶれるとは・・・。情けねえな!青黒!!」

「黙れ!!!」
 闇の静寂を消すほどの青黒の怒鳴り声が響いた。思わずビッくと目を閉じた愛だが、おそるおそる壁越しから覗くと、 すでに、蔵王に向かって、棍棒を振りかざした青黒の姿がいた。
 姿はまだ人間の姿の青黒であったが、髪は怒りで逆立ち、その頭から生える二本の角は、平生よりさらに大きく伸びていた。
 蔵王は、羽織に隠していたのか、金色の鞘に入った太刀を片手に持ち、棍棒を防いでいる。
「昼間の時と変わらねえな。現世じゃあ、手加減してるのか?」
 余裕のある笑みで話しながら、蔵王は青黒の棍棒を押し返す。同時に鞘を抜き、きらめく太刀の刃を、青黒に向かって振りかざしたが、青黒はすぐにかわした。
 青黒は、素早く腰の刀で蔵王を斬りかかるが、蔵王の立ち回りも早く、やすやすと太刀で防ぐ。

 星の明かりが、二人の男の戦いを照らした。

 気づけば、青黒は青黒い肌をした鬼の姿に戻っていた。怒髪からのぞく、鋭い二本の角、真っ赤な口からむき出しの牙、カッと見開いた黄色い目。一度見れば、ぞっとするほどの恐ろしい姿は、誰が見ても、すぐその場から逃げたくなるだろう。
 それでも、愛が見る鬼は、愛する夫であった。怒りで熱を帯びているのか、唯一、なじみの麝香が、辺りを漂う。
「全く、現世で再び会ってからというもの、弱くなったな。」
 蔵王は、始めから変わりない様子で、あざ笑い続けていた。
「まだまだ、これからじゃあ!!!」
棍棒や刀を器用に使いこなしながらも、青黒は、少し息を切らしていた。

『お願い・・・。黒さん、無事でいて・・・。』
 心臓がぎゅうと締め付けられそうな不安に襲われながら、愛は夫を見守りながら、願い続けた。

 蔵王も人間ではないほど、すばやくかつ軽やかな立ち回りで、なおも太刀を振るい続ける。
 嗅いだことのある花なのだか。どうしも、青黒の麝香とは異なる華やかな香りが、蔵王の黒き羽織がなびくとともに鼻につく。

「隙あり。」
 ついに、蔵王は刀を振りかざした青黒の片腕を切りつけた。

「黒さん!!!。」
もはや愛は耐えきれず、夫の元に駆けだした。
赤い血が腕から滴り落ちると同時に、青黒は、持っていた刀を落とす。
「くっ・・・・。」
傷を負わされ顔を歪めた青黒に、蔵王はとどめを刺そうと太刀を振り上げたが、すぐに下ろした。
「こんな最弱な鬼を今ここで仕留めても、興冷めだな。すぐに、お前を殺すのはやめとこう。それより・・・。」

蔵王は、夫の傍に駆け寄る愛の前に立ち塞がった。
「鬼を誑かすお前も、人間であれ、この現世においては生かしちゃおけねえな。」
 愛に黒い壁となり、太刀を振りかざす蔵王。愛は、あっと声を上げそうになった。

「おい!!!」
黒い壁の後ろから、青黒の声がしたと思うと、鬼は、蔵王より高く飛び上がり、そのまま回し蹴りを、蔵王の頭に食らわした。
相手に隙を突かれた蔵王は、瞬時によろめいたが、また太刀を持ち直して態勢を整えようとした。
「おらおらおらおら!!!道具使うだけが、闘いじゃないんじゃあ!!!。」
片腕を負傷しながらも、青黒は拳や足を使い、蔵王を隙なく攻撃した。蔵王は、顔や腹を殴られ蹴られ続け、持っていた太刀を落とす。

「これで、とどめじゃあ!!!。」
青黒は、きつく握りしめた右の拳を、蔵王の顎の下から殴り上げた。鬼の圧倒的な拳で、蔵王は夜空へ投げ上げられたかと思うと、地面に叩きつけられた。

愛は、目前で闘い終えた夫の姿を、ただただ、息をのんで見た。

「はぁ、はぁ・・・・。」
血が流れ続ける片腕をおさえ、鬼は肩膝をついた。
「黒さん!!」
愛はすぐに夫に寄り添い、抱きついた。気づけば、自分が涙を流していることも、愛はようやく気がついた。
「まぁ。大丈夫か?」
「私よりも、黒さんが、黒さんが。」
みっともないかもしれないが、怪我をした夫が心配でたまらず、涙が止まらない。
「なぁに。どうってことない。すぐ、血も止まる。」
青黒は、自らの舌で傷を舐めた後、涙で濡れた妻の頬を、両手で包むように拭った。
「怖がらせてすまんかったのぅ。大丈夫じゃ。あいつも、あそこでのびとるし。心配せんでえぇ。」
その笑顔は、鬼であっても、いつもの笑顔に戻っていた。

「さてと。最後は、検非違使の邸じゃな。結界を抜けてどう入っていけばいいんだか・・・。まっ。氏神に聞くとしようか。」
青黒は、散らばった武器を拾い、妻の肩に手を回して、場を離れようとした。


「そうはさせん。」

 青黒の拳で気絶していた、蔵王が再び二人の前で立ち上がった。殴られたせいか、鼻や口からは、血が出ている。
「こんな、汚いやり方で、お前に負けるなんて、俺の気がすまねえ。」
 最初に見た整った顔はなく、蔵王は、忿怒の形相に変わった。黒い長髪を逆立て、もはや人間とは別の姿へと変わりつつある。

「現世にて、お前の存在は、いつも疎ましかったが。今夜ここで、もう終わりとしよう。」
 静かに話す蔵王の目の色は、金色に輝いている。青黒は、再び愛を自らの背中にかくまった。
「蔵王よ。もう諦めぇ。今度は何する気じゃ。」

「あまりここでは、使いたくなかったが・・・。あの世の闘いで、お前にとどめを刺した力、味あわせてやる。」
蔵王の目は、愛にも向けられた。
「お前にもな。」

 蔵王の言葉を聞き、青黒は瞬時、カッと目を見開いた。
「待て!!!蔵王!!!!まぁは現世の人間じゃ!!!!わしとの闘いとは何の関係も・・・・・。」
 青黒が言い終わらないうちに、蔵王は、口から聞いたことのない言葉を唱え続けた。と、と同時に、強い夜風が蔵王から、夫婦に向かって、吹き抜ける。
 針のように鋭く、どの花々よりも華やかで、圧倒的な存在の大輪の花。

「どうして、薔薇(ローズ)の香りが?」
一瞬、愛の鼻はそう感じたが、夫がうめき声と共に倒れた。
「黒さん!!!。」
愛は倒れた夫を抱えようとした。ジュっと、炎のような熱が、愛の両手に伝わる。
「あつっ・・・え?」
 愛は、うめきながら地面をのたうちまわる青黒を抱けずに困惑した。
 次第に、青黒の身体から小さな煙が立ち上り、赤い火が青黒をあっという間に包んだ。青黒はうめきながら、地面に転がり、自らの身体から燃える火を消そうとした。
「黒さん!!!。」
「ぐっ・・・うっ・・・まっ、まぁ。わ、わしに近づくな。お前も焼かれてしまう。うぅ・・・・。」
 愛は水がないか、辺りを見回したが、何もない。

「ふふふ。ははははは。」
笑い声と共に、蔵王が愛に近寄った。

「さきほど、邪鬼を焼死する真言を唱えた。もうじき、この鬼は焼き死ぬ。
お前も同じようになると思ったが、違っていたようだな。」
 蔵王は、片手で、愛の胸ぐらつかみ、首に太刀の刃先を当てた。
「真言がきかないのならば、その首をはねれば済むことだ。」
 片手で持ち上げられ、恐ろしい力で息をするのが苦しくなった愛は、忿怒の蔵王の顔にぞっとした
「やめろおぉぉっーーーー!!!」
怒鳴り声と共に、背後から、全身を炎に包まれながらも、青黒が、蔵王にめがけて、拳を振り上げる。
「そいつは、わしの大事な、つ・・・」
ブスッと鈍い音がした。愛の目に映ったのは、太刀で身体をひと突きされた鬼だった。
「黒さん???」
 ドスっと音と共に、鬼が倒れた。青黒の身体から燃える炎の勢いが、さらに強くなる。いつもの優しい麝香の香りが、焼け焦げたお香の匂いへと変わった。

「いやぁあああああああ。」
愛は泣き叫んだ。
蔵王の形相は、忿怒からあざ笑いに変わった。
「嘆くことはない。次は、地獄で会えば良いのだからな。」
胸ぐらをつかんだ力を強くし、蔵王は、太刀を高々と振り上げた。薔薇のむっとする香りが、辺りを埋め尽くすように、漂う。
「さらばだ。」

黒(くろ)さん・・・。
 愛は、燃え続ける夫の姿に涙しながら、目を閉じた。

#創作大賞2023


 第5話:

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