今でも不器用な私がストリンガーになった訳
本格的にラケットストリンガーになってからもう20年以上経った。細やかな仕事ぶりからよく器用ですね、と言われる。
でも全然そんな事はなくて今でも不器用だ。
アルバイトでテニスラケットのストリングス(ガット)張りを習い始めた頃は覚えが悪く、何度も何度も失敗。教えてくださる先輩スタッフの方々に本当に迷惑をかけた。
ひどい時にはお客様にラケットに傷をつけてしまい、激怒された。それでも私を庇ってくれた。根気よく私を使ってくれなかったら、今の私はないのだと思う。
自分が使うラケットは何とか張れた。でもお金をいただいて張るのは全然違う。やっていることは同じなのに。
それでも毎日毎日張る機会があるたびに緊張して張っていた。
そんなある日お客様から自分が張ったラケットを褒めていただいた。母娘でテニスをなさる方で中学生の娘さんのラケットを張って使ってもらったら飛びが違う、音がすごい、と言われたそうだ。音がすごくて恥ずかしくなったとも言っていたのでそれは果たして良かったかはわからないが評価してもらったのには嬉しかった。
生まれて初めて身内以外から褒められた。
ちょっと社会の一員になった気がした。
それからストリング張りに興味を持った。
その当時はガット張り、なんて言われていたがテニスの肝はここなのかもしれないと思った。
私は不器用だが興味を持つととことん追求したくなる。
だから興味の対象は一般テニスプレーヤーからプロ選手に移った。
しかも世界のトップ選手だ。
でもどうやったらその現場に行けるのか?
運がいいかどうかだかたまたま見ていたテニス雑誌にそのトッププロの専属ストリンガーの特集がされていた。
もうこの人に会うしかない!、そう思ってしまったら早速英文でEメールを送っていた。
無視されると思いきやほぼ翌日には返信がきた。
2001年3月、私は初めて世界のトーナメントデビューを果たした。
倉庫みたいな部屋だったが、そこには必ずトップ選手たちが顔を出す。
しかし残念ながら当時私が知っている選手はP.サンプラスとA.アガシ、あと数名でほとんど知らない選手ばかりで隣の仲間に聞いてばかりだった。
デビューしたと偉そうに言ったが所詮見習いかゲスト扱い。だからそれほど多くを張ることはなかった。
その中でもやたら任せられたのはHEAD PRESTIGEでそこにポリばかりが回ってきた。
なかでも堅くて張りにくいラフ加工のポリは多く張らされた。
まるでテストされているかのようだったが。
小さくて目の細かいラケットにラフ加工のポリを張っているとギーギーと音が出る。キルシュバウム社のスパイキーというストリングはまさに硬くて張りにくいギザギザしたものだった。
それを隣にいた仲間がやじってきて
「お前またスパイキー張ってんのか?」(笑)
その次の日から私の呼び名はスパイキーになった。
慣れというものは怖いものでいつの間にか苦手だった張り方が得意になっていた。
多くの難しいラケットは私を成長させた。
10日間の貴重な体験で私は一応満足はした。ただいきなりの体験で気持ちがついていかなかった。選手のラケットは見れたし、張り方もわかった。それでとりあえずよかったから。
ツアーを回るのは絶対無理だと思っていた。
ほとんど稼ぎない中では無理だ。
そんな中、次のトーナメントのお誘いが来た。
US OPENだった。