小室眞子さまの名前占秘術(^^♪なぜ名古屋は天下取りの場所だったのか?お名付け開運堂 喜乃原つき子 2021年9月30日 19:19 戦国時代に天下人が次々に出た都市それが名古屋です。※1467年(応仁元年)の応仁の乱から、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で、豊臣家を滅ぼした徳川家康が江戸幕府を開くまでの約140年間これは単なる偶然ではありません。なぜなら天下を取るために名古屋は絶妙な場所にあります。まず、織田信長が那古野城から出て清須城を手に入れ、岐阜へ進み、安土城へと勢力を伸ばしました。※なごや城は、戦国時代に尾張国愛知郡那古野(現愛知県名古屋市中区)にあった日本の城きよす城は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった日本の城あづち城は、琵琶湖東岸の近江国蒲生郡安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城これは現在の東海道本線と同じルートで京を目指していたのです。名古屋市→岐阜県→滋賀県→京都府信長は京を征服したかったけど、明智光秀の反乱で頓挫しました。※織田信長は、日本の戦国時代~安土桃山時代の武将織田信長(1534~1582)の天下統一事業を支えてきた明智光秀は、本能寺の変で主君を討った、裏切り者のイメージが強い人物そして天下を手中にしたのがあの豊臣秀吉でした。※豊臣秀吉は、尾張の人(1536~1598)安土桃山時代の武将。尾張の中村という田舎出身の最下層の身分でありながら信長に重用されて、明智光秀を討って天下人になったわけです。秀吉は大坂城を造り、そこを都としました。※大阪城は、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に再築された日本の城。別称:錦城秀吉の没後、天下を取ったのは徳川家康です。徳川家康は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将天下人が3人とも名古屋圏から輩出しています。甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信も名将でしたが天下を取るには京都が遠すぎました。※武田信玄は、現在の山梨県の戦国大名上杉謙信は、現在の新潟県など北陸地方を支配した武将つまり地元で活躍しているうちに名古屋人に天下を取られちゃったというわけです。名古屋って天下取りに絶好の地だったというわけ・・・ところが天下を手中に収めた名古屋人たちは名古屋を都にしませんでした。信長は京を狙い、秀吉は大坂を作り、家康は江戸を開いたのです。3人とも名古屋からスタートして天下を取ったあと名古屋に帰りません。名古屋は天下取りのために出かける場所ではありますが天下を取ったら戻ってくる場所ではないのです。なぜなら名古屋には昔のことをよく知っている連中が多く馴れ合い精神が強いので、天下人を妬んで引きずり降ろそうとするからです。名古屋人は天下を取った人物に対して「昔をよう知っとるツレ」というレベルに引き下げようとします。信長も地元民に言わせれば、たわけた格好でうろつく『うつけ殿』ということになります。うつけ殿が調子良く天下を取ったけど「昔をよう知っとるでね。威張られてもピンとこんわ」というのが名古屋人の反応。秀吉も「百姓出のサル」とか「殿様のぞうり取りが関白?」と、からかわれてしまいます。だから秀吉は名古屋に帰りたくなりません。家康も「元は那古野城の人質」と蔑まれてしまいます。これが名古屋は天下を取るのに最適なのに天下を取ったあと帰りたくない理由です。http://fuku-jin.com/onazuke/ #名古屋 #小室眞子 #天下取り この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート