自分の「面白い」くらい自分で決めろ
「〇〇って面白いの?」って聞かれるのが苦手だ。
「人によるよね」としか答えられないし、そう答えてしまうとなんだか冷めた反応をしてしまっているようでソワソワしちゃう。
私は自分が良いと思ったものを周囲にオススメする節があるのだが、お笑いが好きということもあって、大半が公式にアップロードされた芸人さんのネタ動画だ。
本でも映画でも、人にオススメする時は大抵説明を求められる。ただ面白いからみてよとだけ言って勧めても、相手が自分の貴重な時間をそれに割いてくれるとは限らない。どこがどう面白いのか予め説明して、納得してくれなければ、実際に行動に移すことにはなかなか結びつかず、二つ返事で終わってしまう。
だけど、それをすると、実際に観た時の面白さや衝撃は薄れてしまうのではないか?
それでいいと言う人も居ると思うけど、多分薄れているだろうし(暴論)、本や映画は何度観ても面白い。一回で充分に楽しもうとすることもアリだけど、回数重ねていくと別の面白さに気が付けることもあるんだぜ。
世の中には、言わんでもわかるわということまで説明をしてくれているし、表記や解説で溢れている。一見便利に思えて、豊かであるとは言い難いトラップのようなものだ。
Twitterをしていて、「この人、私が言いたかったことを的確に表現してくれている」と思うことがよくある。自分の想いが巧みに言語化されていることほど気持ちいいことはない。しかし、こうやって自分の想いを推し量りながら言語化する過程をパスし続けることで、私たちは思考停止状態に陥ってしまっているのではないだろうか。
恐らくそう思ったことはなかったのに、さも自分のもののように他者の思考や言葉に丸々乗り掛かるやつもいる。そういうやつは、口調とかで大体バレているから気をつけた方がいいと思っている。
自分の感情や思考を他人の軸に預けすぎてはいけないと思う。ましてやその状況に慣れてしまってはいけない。
「〇〇って面白いの?」なんて聞かなくていい。
いいか、面白いかどうかはお前が決めるんだ。分かるな?お前が決められるんだ。(お前とか言っちゃったよ、ごめんね)
「これってどこが面白いの?」なんて聞くやつは論外。私の人生に関わってこないでくれ(ちょっと言いすぎた、ごめんね)。
だからもう、「〇〇って面白いの?」って聞かないでくれ。
どこがどう面白かったのか、あるいは面白くなかったのか君と話がしたいのに。