不安はどこからきたのか 不安は何者か 不安はどこへ行くのか
今年もアドベントカレンダーの記事のお願いが来ました。この依頼はおよそ1ヶ月以上前に受けていたのですが、ここ最近割と忙しくしており、何を書こうかじっくり考える余裕はありませんでした。そもそもこうした記事を書くことにはあまり慣れておらず、テーマも決まっていないと逆に何も思い浮かばず途方に暮れています。文章を書くこと自体は嫌いではないのですが、表現をあれこれ考えてしまう僕にとって、執筆は時間と体力をじわじわ消費する行為であり、どうしても億劫に感じてしまうのが本音です。加えて自分が書いた文章が公に晒されることに対して少なからず抵抗を感じてしまうし、ことさらnoteのような媒体に公開されれば即座にいいねやコメントがつくわけで、そうしたネットの勢いにどうにも落ち着かない気分なる。せっかく書くなら誰かに読まれてほしけど、snsみたいになってしまうのは文章のいいところが台無しじゃないか!とも思ってしまうのです。
とはいえ、ここでnoteへの不満を言っても仕方ないですし、それに今回依頼してくれた先輩は何かと僕を気にかけてくれる方ですから、しっかりと書きます。コメントやいいねもお待ちしております。
結局この記事を書いているのは公開の前日の夜で、ぎりぎりになって重い腰を上げたわけですが、書こうと思っているテーマは2つほど浮かんでいます。1つは「盆踊りとシューゲイザーに見る、反復構造と陶酔感について」、2つ目は「クリエイティブコンフィデンスについて」です。前者は今年の夏、野方の夏祭りの盆踊りで演奏されていた無限のリフに陶酔感を味わった時の話で、僕にとっては少し得意げに語りたいトピックではあるのですが、アドベントカレンダーに投稿されている他の方の記事を見るとあまりにも毛色が違う気がするので、今回は「クリエイティブコンフィデンス」について書こうと思いいます。
さて、僕にはあまり自信がありません。自覚もしていますし、おそらく社内でもそうした印象が既に共有されていると思います。自信がないというのはどう言う状態かと言うと、何をしていても常に一定の不安が存在し続けていると言うことです。同じ性質を持つ方には共感してもらえるかなと思うのですが、物事が順調に運んでいるように思えても、誰かに賞賛されるようなことがあっても、基本的に24時間、頭の3~4割ほどはなんらかの不安で占められているのです。そしてそれはしばしば7~8割ほどまで膨張します。この特性が周囲に「頼りない」と言う印象を与えてしまうことは芳しくないですが、不安を感じることそのものはネガティブなものだとは考えていません。
結論から言うと、この記事で言いたいことは、祝福された不安は僕たちを前進させてくれると言うことです。
これはアメリカの舞踏家、Martha Grahamの言葉を借りています。
クリエイティブコンフィデンスについて書く前に、大学の教授がプロジェクトで発生する行き詰まりを、透明な橋をメタファーに話していたことから始めます。
教授は先行事例や関連技術をリサーチしている段階は森の中を一歩ずつ進んでいるようなもので、いざアイディエーションの段階にくると、ある時突然川が行手を阻むと言います。そこから先に進むためには目には見えない透明な橋を見つける必要があるのだと。その橋を見つけるためには、川辺をうろうろ歩きながら、ふわふわと取り止めのない雑談や思考を交わし、隙あらば川に飛びこんでみるしかないと言う。
ここで重要なのが「必ず透明な橋は存在する」と無条件に信じる態度だそうです。それを疑い「ここには橋はないんじゃないか」と思った瞬間に、アイディアの芽は消えてしまう。つまりは既存のソリューション以外にもっと良いものがあるはずだという確信が持てなければ、平凡な発想の域からは踏み出せず、結局最初から見えていた妥協的な解決策に落ち着いてしまうのです。透明な橋の存在を否定することは、既存の枠組みを超えたアイディアの存在を否定することに他ならず、そう思ってしまったら絶対にグッドなアイディアが生まれるはずがないのです。
一方で世の中にはイノベイティブなアイディアを継続的に生み出し続ける人たちが存在します。なぜ彼らは透明な橋をたくさん見つけられるのか。彼らは僕のような凡人とは質的に異なり、ひょっとすると透明は橋を見ることができる特殊能力があるのかと思ってしまいますが、決してそんなことはなく、彼らこそ過去に透明な橋を発見してきた体験から「絶対に橋は存在する」と揺らがない信念を抱いているからなのです。だからこそ何度も川へ飛び込むことができますし、グッドなクリエイションに辿り着くことができるのです。またその成功体験がさらなる自信を生み、より強固な信念を持って次の川辺に立つことができる。この一つひとつのポジティブな循環が巡ることで、計測不能な程の量的な差が生まれ、質的な差に感じてしまうのです。
ここでいう「透明な橋が必ずあるはずだ」という自信こそが、IDEOの創業者Tom & David Kelley 兄弟のいう「クリエイティブコンフィデンス」なんじゃないかと思います。
結局は自分に世界が変える力があると信じられるからこそ、本当に変化を起こすアイディアが生み出せるのであり、橋の存在を信じていない奴が未知の対岸へ行くことはできないのだろうと思います。
僕は自分のことをクリエイティブな人間だとは自負してないけれど、この言葉は好きだし、一応なりにもその信念を心に留めているつもりです。
それでもどうして僕は常に自信を欠いているのか。僕を取り巻く不安は何者なのか。どこから来ているのか、そしてどこへ行くのか。
それは「透明な橋はどこかにあるはずだ」と信じながらも、「今渡ろうとしているこの橋は途中で途切れているんじゃないか」、「この橋は今にも崩れ落ちようとしているのではないか」、あるいは「橋を渡っているつもりが、実は腰まで水に使っているんじゃないか」と、疑わずにはいられない心の揺らぎなんじゃないかと思っています。
透明な橋はその性質上、他人には理解されにくく、ある人からは賛同が得られても、みんなからの賛同を得ることはもとより論理的に不可能なのです。もし仮に全員がグッドだと思うアイディアだとしたら、それは既に見えている橋をみんなで目隠しして渡っているだけなのだと思います。
それなのに僕は渡りかけている橋の存在をいちいち確かめたくなってしまい、立ち止まってしまうのです。手すりも何もない空中に一度立ち止まってしまうと、どうにかしてでも橋を渡り切らないといけないという出処不明の責任感に似た焦りと、現在の足元を確認したいと言うせめぎ合いが起こり、大量の不安を生産しているのです。
このように不安は結果として僕を立ち止まらせますが、一方で次の一歩を確かなものにしようとする原動力にもなっていると思います。空中に踏み出す心細さの中、透明な橋を手探りで叩きながら、その輪郭を浮かび上がらせようとしているのです。僕の内側で起きているのはこう言うことなんだと思います。
同じチームの同期には水に濡れることを一切厭わずに、躊躇いなく前進していく人がいて、圧倒的に眩しくてしかたないですが、それと比べると僕は水に濡れることに怯えているネコみたいで情けなくも思えます。
時間切れ。すいません。もう寝る時間なので、ここで一旦終了します。
本当はここから、透明な橋を渡り切るために必要な、想像と創造のマイクロトライアルについて説明して、その時に不安の要素が重要な役割を果たすこと、そして僕なりの不安と自信の関係について持論を展開しようと思っていましたが、それは来年のアドベントカレンダーで書こうと思います!