震災遺児が13年越しに地元へ!レベル1から始める社会人ステップアップ生活 byシュレン
初めまして!藤原珠伶(フジワラ シュレン)と申します。
2024年3月に仙台大学を卒業し、4月から女川町地域おこし協力隊として活動しています。
普段は、受入先の株式会社つなぐ様で、保育所や小学校の子どもたちに運動指導をしています。子ども好き、かつ、スポーツ好きな人間なので、好きな分野で子どもたちに癒されながら活動できています!
今回は、簡単な自己紹介や地域おこし協力隊になった経緯など、これまでの人生についてざっくり書いてみたいと思います。
文量が多く読みづらいかもしれませんが、1人の人間の人生を軽く覗く感覚で、ぜひ気軽にご覧ください!
自己紹介
改めまして、こんにちは!
藤原珠伶(シュレン)と申します。宮城県石巻市出身、2001年生まれの23歳です。こんな名前ですが、男です。父、母、兄と私の4人家族です。
珍しい名前だと思いますよね?
この名前は、父が北斗の拳が好きであり、中でも 炎のシュレン が好きだったため、そこからとったみたいです。ラオウに簡単に倒される、いわゆる雑魚キャラとされています(笑)しかし、熱く男らしい姿に父は魅了されたのでしょうね。私も大人になるにつれて、子どもには伝わらない炎のシュレンの中身のかっこよさに気づき、この名前を誇らしく思っています。
私の人生はスポーツばかりの人生で、2歳から小3までサッカー、中学でバドミントン、高校で陸上(短距離)、大学でアメリカンフットボール(WR,CB)を経験しました。特にバドミントンは得意で、中学から始めて2年生で個人ダブルス秋田県3位、3年生で団体・個人ダブルスで秋田県優勝しました(やや自慢)。
そんな楽しげな人生を送ってきたように見えますが、私の人生にとって切っても切り離せないものが、東日本大震災です。
東日本大震災の経験
2011年3月11日14時46分、私は小学3年生でした。何らかの授業中で、図書館に居ました。早く帰ってサッカーしたいな〜などと思っていた時、それは始まりました。低く深い地鳴りの轟音と、地球が壊れるとまで感じる激しい揺れが襲ってきました。
図書館の広い机の下から、ドサドサとひとりでに落ちていく本や、窓から見える大きな電波塔があたかもこんにゃくかのように大きく揺れている様を見ていました。地震の轟音と学校全体が揺れる音、辺りの悲鳴などに耳が支配されている中、私の心は落ち着いていました。
「また地震かよ。どうせまたすぐ止んで終わるだろ。」
こんな冷めた考えをしたイキリ小学生だったのです(自分でも恥ずかしい)。なぜなら、その数日前から頻繁に地震が起きていたからです。この地震も大ごとにはならない程度だろうと思っていました。
体育館に避難してから保護者の迎えを待ち、自宅に帰りました。家具が倒れ、荒れ果てた自宅に唖然としましたが、片づければどうにかなると思っていました。ため息をつきながら片付けていると、突然兄が言いました。
「え、水入ってきてる、やばい水入ってきてる!!」
言っていることが理解できず急いで玄関に向かうと、閉めている玄関のドアから凄い勢いで澱んだ黒い水が流れ込んできていました。咄嗟にこれはやばいやつだと確信しました。貴重品だけ急いでかき集めて、必死に2階へ避難しました。必死で逃げたため状況が把握できていなかったのですが、2階の窓から見えた光景に、息を呑みました。
それまで過ごしてきた思い出深い故郷の姿はそこにはありませんでした。
地面が浮き上がってきているように思えるほど、凄まじいスピードで黒い津波が辺りを呑みこんでいきました。大きな瓦礫や自動車がまるでおもちゃのように軽々とたくさん流れていました。電柱にしがみつく人や、流されていく人をただ見ていることしかできませんでした。
それから4日間飲まず食わずで過ごしました。何を考えるでもなく、ただ飢えと寒さ、果てしない怖さに耐えることしかできませんでした。
津波が引いた後、宮城の内陸に住む親戚が助けに来てくれて、その親戚の家で数週間過ごした後、母の実家のある秋田県に引っ越しました。当時は、友達や知り合いにさよならも言えずに石巻を離れたことが悲しくてたまらなかったです。秋田県は震災の被害も少なく、安全に過ごせる場所でした。
しかし、安全ではあっても家族全員で過ごした暖かい家庭はそこにはありませんでした。
人生で最も尊敬する人、私の父が東日本大震災で津波に呑まれ、帰らぬ人となったからです。
父
私の父、藤原孝輝は私の憧れであり大好きな人でした。
表向きの性格は私と真逆で、明るく活発で誰とでも仲良くなるタイプでした。車屋の担当者と仲良くなって家に連れ帰り、夕飯をご馳走してしまうような人です。少しは伝わりましたかね?(笑)
しかし、父の元々の性格は私と似ていると母は言います。仕事中に母に電話をかけ、死にたいと漏らすこともあったそうです。私たち子どもには一切そのような姿は見せませんでした。いつでも明るく優しい、大好きな父でいてくれていました。
父は実家の事情で高校を中退し、中卒という学歴のため安定した職には就けず、工事現場の警備員や牡蠣養殖の工場など様々な仕事をしていました。いわゆる貧乏な家庭だったと思います。共働きだったため、兄と2人で家で過ごす時間が多かったと記憶しています。寂しさはありましたが、どこの家族よりも幸せだったと自信をもって言えます。
なぜなら、両親からの愛情がしっかりと感じられていたからです。夜勤明けで朝帰りなのにも関わらず、私にサッカーを教えてくれたりゲームをしてくれたりと、今思えば無理させていたと感じるようなことを、楽しげにやってくれていました。父と過ごせた時間は短いですが、多くの愛情と思い出、多くの学びをくれました。
そんな父は震災当時、海岸沿いの道路工事の警備員をしていたそうです。
「海岸沿いか〜、そりゃ助からないよな〜」って思いますよね?
でもそうじゃないんです。地震がきた時点で、全員で高台の山の上へ避難していたんです。ではなぜ津波に呑まれたのか。
家族が心配だから家に行くと言って、車に乗って高台から降りたそうです。
その後、自宅までの道のりの中で、父は津波に呑まれました。
父が見つかったと連絡を受けたのは、秋田に引っ越して1、2週間が経った頃でした。震災当時はまだ生きていると信じていましたが、もうその頃には心の中で、父はこの世にはいないのだと分かっていました。なので、連絡を受けた時は涙が出ませんでした。受け入れているのか、受け入れることから逃げていたのか、平常心でした。
翌日、荒れ果てた石巻市内にある1つの体育館に家族や親戚と一緒に向かいました。
そこには綺麗に並べられた簡素な棺桶がたくさんありました。いたるところに泣き崩れている人がいます。案内されて向かった先には変わり果てた姿の父がいました。息をしていない父を見るのは不思議な気持ちでした。自分の気持ちが整理できない中、勝手に涙が溢れていました。
秋田での生活
秋田に引っ越して数週間後、新4年生となるタイミングで秋田の小学校に転校しました。友達がゼロになった状態で始まった小学校生活は、苦痛でした。1ヶ月弱ほど誰とも話さず遊ばず、机に突っ伏して時間を潰す学校生活でした。石巻の学校と秋田の田舎の学校では、雰囲気も子どもの性格も全く違っていて戸惑いましたが、何度も話しかけてくれるクラスメイトのおかげで徐々に話せるようになり、溶け込んでいきました。
中学校にあがると、友達に誘われバドミントンを始めました。初めは全く上手く出来ず悔しい思いばかりしていましたが、持ち前の負けず嫌いを発揮し、自分でフォームやフットワーク、戦術などを研究し、少しずつ上達していきました。結果を出せるようになった頃には自信もつき、バドミントンにのめり込んだ中学時代でした。
中学3年生になると、先生の推薦で英語弁論に参加しました。英語は得意ではなかったのですが、震災の経験を英語弁論でスピーチしてほしいと先生に頼まれたことが決断した理由です。スピーチの内容は、「父への手紙」です。弁論内で父に向けて、母を守ると約束しました。こうして書いている今現在、母を大事にできているか改めて考えさせられました(もっと大事にしよう!)。弁論大会では表彰を受けることはできませんでしたが、学校祭で英語弁論のスピーチを披露した際、多くの親御さんたちや先生方、友達や後輩が感動したと言ってくれて、やりがいを感じました。何より最前列で見ていた母が涙を流しながら真剣に見ていてくれたことに感動しました。
高校にあがると、バドミントン部がなかったため仕方なく陸上部に入りました。走ることには自信はあったのですが、陸上部として真剣にやる自信はありませんでした。100mのベストは11秒46くらいでした。私には陸上の才能はありませんでした。高校は部活動ではなく、学びたいことを優先して選びました。英語弁論を通して英語が好きになり、国際科という学科のある由利高校に入学しました。入学前の春休みには、あしなが育英会のイングリッシュキャンプに参加し、フィリピンで1週間を過ごして英語や異文化に触れました。
大学生活
2020年、新型コロナウイルスが猛威をふるっていたタイミングで、仙台大学に入学しました。コロナウイルスの影響で入学式はオンライン、授業もオンラインで行うため、4月いっぱいくらいは実家で授業を受ける生活でした。翌月になり、ようやく仙台大学のある宮城県柴田町船岡に引っ越しました。
バドミントンへの熱が冷めきらずバドミントン部に入部しましたが、高校でやっていなかった期間が想像以上に足を引っ張り、周りとの差に苦しみました。そんな中で、部員からのいじめとも取れる陰口や態度に耐えきれず数ヶ月で退部しました。そしてその半年後、私はアメリカンフットボール部に入部しました。勧誘イベントに誘われ、仕方なく行ったら楽しすぎてハマってしまいました(笑)。
激しい接触や食事管理、度重なるミーティングなど苦しい日々でしたが、活躍できた時の喜びや楽しさに魅了されました。アメフトを始めた初年度で東北地方の学生優秀選手に選ばれ、自信もつきました。怪我とストレスばかりでしたが、やって良かったと思います。
そんな調子で順調に大学生活を送っていたのですが、4年生になり最高学年となった時、私はうつ病になりました。
うつ病との闘い
私たちは、部活動を取り仕切る立場として準備を進めていました。全て学生主体で行うとしているアメフト部では、年間スケジュールから組織運営の仕組み、年間目標や会計など、考えることが多すぎて手が回らない状況でした。意見の合わない外部コーチと部長の先生に挟まれながら、試行錯誤していましたが、同じ危機感や責任感をもって取り組んでくれる同級生はいませんでした。「バイトがあるから〜」「もう予定入ってるから〜」などと責任を放棄する同級生に嫌気が差し、部長の先生の研究室に連日通い、相談しながらほぼ1人で準備を進めました。しかしそんな努力は同級生に届いていません。私は一度部活動と距離を置くことにしました。
ただ大学での授業を受ける日々の中で、少しずつ心が苦しくなっていきました。やがて授業にも行けず家からも出られなくなりました。うつ病でした。1日何も口にせず、暗い浴室で丸くなってボーっとしている日がほとんどでした。実はこういった経験は初めてではありませんでした。震災以降、小学生の時から気持ちが落ちてしまい、死にたくなることが多々ありました。本気で死にたかったんです。父が亡くなって以降、徐々に家族の繋がりが薄れていき、食事の時間以外顔を合わせることもなくなりました。相談したいことがあっても誰にも言えない人生でした。また父と家族、あの暖かい家庭で過ごしたい、戻りたいと願ってきました。
そんな中でも就活や卒業のための単位や卒論など、先が見えない苦しみの中にいました。部活動の同級生には、忙しい大事な時期に居なくなった裏切り者として、何度も責め立てられました。そんな状況で将来に希望などなく、やりたいこともなかったため、就活は難航していました。気持ちが沈んでいた頃、受けていた奨学金のイベントに参加してみたんです。そこで出会ったのが、現在私の受入先としてお世話になっている株式会社つなぐの代表の原田直信さんでした。
地域おこし協力隊として女川へ!
奨学金のイベントに参加したのは、少しでも気分転換したかったからです。鬱々とした日々を忘れたかったからです。いつもは経験できない体験ができたり、同年代の友達ができて充実した時間でした。
そんな中でスタッフの方々とお話しする機会が度々ありました。そして原田さんとも会話する機会があり、就活に苦労していると伝えると、一緒にやらないかと誘われました。周りのスタッフの方々からは、「やめておきな(笑)」と言われ、自分自身ありがたいとは思いつつも現実的じゃないかなと思ってたんです。
しかし何度か誘われるうちに、事業の内容的には楽しそうだし、自分のスポーツ経験が活かせるし、原田さんの人柄もいいし、逆に何がダメなんだろうと考えるようになりました。
何より、女川町での活動ということが大きなポイントでした。故郷の石巻市の近くであり、震災前から度々訪れていた馴染みのある町だったからです。
震災後すぐに秋田に引っ越してしまい、復興していく様を見届けることもできませんでした。自分が離れている間に様変わりした石巻市や女川町に、寂しさややるせなさを感じていました。
少しでも地域に貢献できるとしたら、、、「これ以上の機会はない!!」
そう思い、原田さんの誘いを受けて女川町の地域おこし協力隊になることを決意しました!
うつ病再発!どうする藤原
大学4年の途中から住んでいた仙台市から女川町へと移り住み、はじめはとにかく毎日できることを必死でやりました。
来たばかりの時期に沢山の女川の方々にお会いして、皆さんの暖かさを感じました。来年の今頃にはどれだけ町に溶け込めているんだろうとワクワクしていた時期です。しかし、1ヶ月ほど経った時にどうしても家から出れなくなっていきました。人にも会えなくなりました。うつ病が再発してしまいました。
時々家から出れる調子のいいタイミングで出勤していましたが、半年以上そんな日々が続き、次年度から地域おこし協力隊を続けられない可能性まで出てきました。そんな中で、役場の方や受入先の原田さんが尽力してくださって、どうにか徐々に復帰できるようになりました。助けてくださった方々、いつでも優しく受け入れてくださる町の方々には感謝してもしきれません。環境に恵まれているなと日々感じています。現在も少し薬を飲みながら、毎日1日1日をやり切るという目標で取り組んでいます!
これから
現在、日々の業務を楽しんで行えています。子どもたちの元気な姿、喜んだ姿、落ち込んだ姿、全てが新鮮でやりがいがあります。少しずつ成長が感じられる場面があると、自分のことのように嬉しくなります!(親戚のおじさん目線)
私は他の地域おこし協力隊の方々と違って、明確な目標や叶えたい夢がまだありません。なぜなら、何も知らないからです。レベル1の状態です!(ザコ)
今までの私は、明るい未来を想像できませんでした。震災以降ずっと暗い世界でした。しかし、女川に来て沢山の方々とお会いして、全力で楽しんで生きている姿を見せられ、自身の視野が狭かったことや、思っているより人生は楽しいということ、社会人としての責任を学ぶことができました。
私はこの地域おこし協力隊としての期間を、社会人として成長する期間、うつ病や過去との向き合い方を見つける期間にしていきたいと考えています。
後から振り返った時に、女川での生活が自分を大きく成長させてくれたなと確信をもって思えるように、日々失敗を繰り返しながら学び、将来の人生に繋げていきたいと思います。
さいごに
ここまでご覧いただき、ありがとうございました!
長々と過去の話を書き進めてしまい、すみませんでした(笑)
今後は日々の活動や思いなどを書いていければと思っています。至らない点ばかりですが、これからも頑張っていきます!
次回もまた見てくださいね!
じゃん けん ぽん!✌️ ウフフフフフ🙋♂️