【図解】私的『人新世の資本論』~資本制生産様式の誕生編~
マルクスが晩年に関心をもったという原始的な協同体における「生活様式」から「資本制生産様式」はどのように発展してきたのだろうか?現在では人類学や考古学の成果により、彼が生きていた頃よりもその変遷を素描することができるようになってきている。今回、自分なりに図解したことを整理してみた。今回は全5回のうちの4回目だ。
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効率的なエネルギー(石炭)の発見にともなう技術革新により、西欧の国内では富を獲得するための優先手段が、土地や人口の制約を受ける労働集約的な農業から、市場経済による利得を重視する貿易や商工業へと明らかに移行していった。
本来の農地運営だけでは立ち行かなくなっていた特権階層や在地有力者は、農場の所有者から工場の経営者へと転身することで「資本家」となっていく。
科学技術の発展に基づき、さまざまな機械を導入した工場は、製品の大量生産を可能にした。そこでは、農村から離脱し、都市へと流入した人民の多くが「労働者」として雇用された。
土地や家業の制約を受けない人びとは、その限りで自由ではあったが、自ら生産手段をもたないため、資本家に雇用され、労働することの見返りに賃金を得るほかなかった。
かつて帰属した共同体のなかで行われていたような、顔見知りの間での"やり取り"に変わって、(見知らぬ誰かからモノを手に入れる)市場での交換取引には、貨幣が必須であったからだ。
そしてそれは、たとえ自分が工場で作った生産物であっても、生活に必要とあらば、市場で買い戻さなければならないことを意味していた。当然のことながら、その生産物はそれを作ることで得た(生産労働あたりの)賃金よりも高い値段で販売される。
製造過程にかかる費用(原材料を仕入れ、人を雇い、工場の機械を動かすための費用)より売値が安ければ商売は成立しないからだ。つまり、モノが売れ、商売が続いているところ、そこには資本家の得る「利潤」(剰余価値)が発生しているのだ。【1】
農地は工場(生産手段の貸与)となり、耕作は生産労働となり、臣民/奴隷は労働者となり、収穫の見返りは賃金となった。開墾作業や灌漑工事は、市場の新規開拓と設備投資へと様変わりし、贈与と返報による情交的な人間関係は、貨幣交換による無縁で匿名的な関係へと変換された。【2】
ただし、労働者が強制的に従事させられた奴隷と異なるのは、雇用主との間で契約による形式的な合意がなされていることだ。生活の糧をもたない労働者は必要に応じて働くほかないが、自発的な職業選択(「自分で選んだのだから」)という仮象は、課された労働に対する義務感と同時に責任感を生じさせる。【3】
そしてまた当然ながら、労働により得た賃金が多ければ多いほど、市場での商品購入はよりいっそう可能になる。旺盛な消費活動によって自分の生活を改善できる期待と欲望が、さらなる勤労意欲を搔き立てた。そうして労働者は、市場における「よき消費者」となることによって、「よき労働者」としての生活を再生産させることになるのだ。
また、かつての特権階層の者たちと資本家との間にも決定的な違いがある。資本家は、神殿や穀倉に富を蓄積していたような守銭奴や、死後も続く栄華と名声を願って巨大な墓所を造らせるような浪費家であってはならないからだ。
市場での激烈な競争を生き抜くうえで、資本家に息つく暇はない。より安くより高品質の商品、高くても買ってもらえるだけの価値があるサービスを生み出さない限り、競合ひしめく市場では淘汰されてしまうのだ。
資本家が経営を存続し、利潤を最大化するためには、より良い設備、より良い技術、より良い人材が必要で、得た利益をそれらに投資しなければならない。そしてそのためには、さらなる資本=元手(利潤)が必要なのだ。
労働者と資本家が「よき労働者」「よき資本家」として自らの利得の最大化を求めて必死にふるまうことで、「資本」それ自体がシステムとして拡大再生産されていく。その循環のなかでは、労働者はもとより資本家ですら、あくまでその歯車の一部に過ぎない。
それはあたかも、人類が少しでも豊富な食料を求めて必死に品種を改良して栽培したおかげで、「穀物」それ自体が地球上にあまねく繁殖できるようになったことを思わせる(人類と穀物、人間と資本の果たしてどちらが主役といえるのか?)。
このラットレースが継続可能であるためには、市場は拡大し続けなければならず、生産は増大し続けなけれならず、価値は無限に増殖し続けなければならない。
かくして、生産物をはじめとする、ありとあらゆるサービスは市場で取引される「商品」と化していく。生活にとって欠かせないほど必要なものでさえ、いや、だからこそそれは商品化されていくのだ。
資本制生産様式が回転し続けることの帰結ともいうべき「歯止めなき商品化」がもたらす惑星規模での物的・人的資源からの収奪。その破壊的プロセスは、あらゆるものごとを「資本」に包摂しながら、有限な自然環境とヒト特有の生活世界を解体していく手を緩めない。
かつては人付き合いのなかでまかなわれていた互いのお世話も、人生をより豊かにする人間らしい営みも、市場を通じて調達されれば「GDP」は増加する。商品の大量生産と大量消費がどれだけ地球環境に負荷を与えようが、それ相応のエコ・グッズが大量に販売されるのが資本主義社会の現実なのだ。
参考・関連書籍