執着から解放される方法は

(「ひそむ執着の正体」からのつづき)

ずっと自分の中に潜んでいた「執着」について考えざるを得ないなと感じた出来事、それは端的に言うと、件の元恋人と十数年ぶりに致したことである。

年に一度、それも大体年末しか会わない関係だった私たちが、今年は年明け早々に二度会う機会をつくった。
致したのはその二回目の時だった。正直言えば私は確信犯だった。

年明け一回目にごはんへ行った最後、彼の家へ寄ることになってしまったのがきっかけだったと思う。
そんな予定では無かったので結果的には終電で帰ったが、そのときの微妙な触れ合いによって私は無性に悶々としてしまったのである。

最初はただ自分が欲求不満なだけだと思っていた。(私は現在の恋人とは5年くらいのレベルでセックスレス。)そして「でもアプリとかでそういう相手を1から見つけるのは億劫だし、知り合いにそういうことをしたいと思える人も居ないし、居てもお願いとかできないし、うーん、一番適任は…あの人なのでは?」みたいな、消去法的感覚で決めたつもりだった。

でもまあ、してみたあとは「この人と今してみるタイミングだと無意識に思ったのかな」と思い直した。
その出来事があったから、彼とのこの十数年の付き合いについてこうして深く考えて見つめ直すことになったし、それは20代最後の年に、自分を見つめ直すという行為にも繋がったと思っている。

多感なあの時期の自分を捧げた人と、どう今後付き合っていくべきなのか。もはや、付き合っていくべきではないのか。実はそんな疑問が頭のどこかで浮かびあがっていたり、ついでに心のどこかでは「もう十分だ」と思っていたりしたのかもしれない。お互い恋人が居るのに彼を「適任」だと思い込んでいた時点でおかしかったので、きっと、そうなんだと思う。

事が起こった翌日には「またね」と言ってすぐに連絡を切り上げた。想像していた以上のいろんな感情が押し寄せてしまって、ブロックをしては外して…みたいなのを3回くらいはやったと思う。連絡がその間きていたかのは不明だが、結局2ヶ月後くらいに私から再び連絡をした。
けれどなんというかそのときのやりとりについては、文字でしか汲み取ることは出来ないにしても、どこか温かさを感じなかった。自分から連絡したにも関わらずその温度感に困惑しているうちに、向こうから返信が来なくなった。

そして今年の誕生日。20代最後の誕生日がきた。

今年はもう彼からメッセージは来ないかもな、と1日中どぎまぎしていたが、23時頃にやっと「お誕生日おめでとう」が送られてきた。嬉しいというよりは、本当に「安堵」と言う感じだった。まだ自分を覚えていてくれたんだ、という安堵。
でもほっとしていたのも束の間で、そのあとには「今の恋人とそろそろ同棲をするかも」という内容が送られてきた。

私が知っている彼は、人と長く付き合うことなんてできないし、まして他人と暮らすなんて無理だった。そんな人間が「同棲をする」と言うのは、まあ簡単に決めたことでは決して無いと思う。年齢も年齢だし、なんとなくここからの彼らの道筋を察した。「そうしたらもう会わなくなるのかな」というと「先のことはわからないから」と言われた。

私は迷った。
「私には愛情をかけさせておいて見返りをくれなかった人を、このまま幸せにさせていいのか!」と。でもそれと同時に「もしかしたら、やっとすべて終わるのでは?」とも思ったのだ。

顔を合わせて話したいことはたくさんあった。それだけ色んなことをこの期間考えていたから。それでもいつもならあちらから出てくる「ごはん行こう」という言葉がないということは、あちらは私に会う気がないということなんだろう。
気を抜いたら物凄い長文を送りつけてしまいそうだったから、メモに下書きして、なにをどう伝えたらいいか長時間悩んだ。
今の自分が彼から欲しい言葉がなんなのかもわかり得なかったけれど、欲しい答えをもらえることなんてきっと無いだろうなと思った。だからこそ、欲しい言葉が返ってくることを望んで選んだ言葉じゃなく、ただ今の気持ちを伝えさせて欲しかった。


私はきっと、心のどこかでずっと好きだと思い続けていたから、今は変化と共に一区切りするときなのかもしれない。
高校の時から今まで、ずっと絶妙に離れられなくて苦しくて、でも会えた時は楽しかったし誕生日もいつも連絡してくれて嬉しかった。
友情としての好きだけで居られなくてごめん。あと傷つけたことも割とあったと思うから、それはすごくごめん。本当は会って話したかったけど難しそうだからここで終わりにする。


こんな感じのメモの下書きから悩みに悩んで送ったのは、最初の一行だけだった。苦しかったことも、謝りたいことも、嬉しかったことも本当は伝えたかった。けれど、全てをこんなところでぶつけても意味が無い気がした。だから、この関係をどうしたいか、それだけを伝えることにした。

「好き」という言葉を入れたのは最後の意地みたいなものだった。たとえ彼が、私が特別な思いを抱いていることにうっすらと気づいていても、それでも最後にちょっとだけ動揺してくれないかな、とそんな意地を込めてその言葉を入れたのだ。送ったあとはしっかり後悔をしたけれど、でも「こう言えばよかった」みたいな代わりの文章は思い浮かばなくて、「ああやっていうしかもう無かったな」と思い始めたら、自然と心は落ち着いていった。そのあとに「同棲を始めたら二人では会えなくなるから、そうなのかもね」みたいな主旨の返信が来ても特に動揺はしなかった。むしろ「ああやっと」と思って、連絡をくれたことにお礼をしてやりとりは終わった。


十数年に及ぶ「執着」からやっと解放された気がする。
まあ正しくは解放され出した、くらいかもしれない。それでも、心が変にジュクジュクしたりもしていない。
与えた分の愛情を返してもらえたとは思えない。でも執着からの解放に必要なのは、愛情を返してもらうことでは無いのかもしれない。

必要なのは、「自分の素直な言葉で伝えること」。
望む答えに誘導したり、駆け引きしたり、偽ったり、そういう言葉ではなく、なんという答えがきても後悔しない素直な「自分の言葉」を選んで伝えることなんだと今は思えるのである。

彼の気持ちは、結局最後までわからなかった。あのとき触れ合ったのも特に意味はないのかもしれないし、この十数年の言動だって私がひとり勘違いをしていただけで取るに足らないことだったかもしれない。そして彼の言うように、先のことはもちろん誰にもわからない。何かの縁で再び引き合わせられる関係かもしれないし、このまま金輪際交わることは無いかもしれない。
未来はおろか過去のことすら確実に知る方法なんてないからこそ、今を受け入れるしかないのだと思う。今の彼の人生を、今の自分の人生を。それらを受け入れて選んだ言葉はきっと正しかったと思う。

そんなこんなで20代最後の年は、人生において重要な「別離」からはじまった。
抱えていたものを置いて再び歩み出す足取りが、いままでより少しでも軽くあることを願っている。

いいなと思ったら応援しよう!