日蓮聖人の足跡を辿る(思親山・身延山)/歴史探訪⑤-1
こんにちは、しがクラです。今回は日蓮聖人の足跡を辿るをコンセプトに山梨は身延山に行ってきました。二日間の行程なので前後半に分けて投稿しようと思います。
思親山
さて、今回の行程の最初の目的地は思親山。身延線井出駅で下車、山中を進み、思親山・三石山の二つの頂を踏んで身延駅に下山するというルートです。
井出駅からはしばらく舗装路。車でも進むことができる舗装路を歩くこと約20分ほど、寺院が見えました。
常照山源立寺、もちろん日蓮宗のお寺です。近づいてみると本堂からは読経の声が聞こえました。さらに先に進むこと約1時間、思親山に到着。
最高の景色ですね。この思親山は日蓮聖人が身延山で修行中にこの峰越しに房州(現在の千葉)の両親を偲んで涙したことからその名がつけられたと伝えられています。
両親が開宗後、最初の信者とされています。彼は体調を崩し、常陸の湯に療養するために下山するまで約7年間身延山に籠っていたため親を思い、涙することも自然な感情でしょう。郷里の両親、俗世への未練が絶ち切れていなかったと捉えることもできますが。
三石山
まだ行程の半分も済んでいないので先を急ぎます。ここからは佐野峠と大島峠の二つの峠を越えるはずでしたが、工事車両が多数。林道が切り開かれていて往時の自然に親しむことはできませんでした。無常ですね。
途中、祠がありましたがお地蔵様が祀られているわけでも、お神酒などがあるわけでもなく、どういったものかわかりませんでした。
日蓮聖人だけでなく、あとで登場しますが、三石大明神を祀る神社もあるためどちらのものかは判然としません。
そうこうしているうちに三石山に到着。
山名の由来とされる巨石。
こぢんまりとしてはいますが、大社があり鳥居らしきものもあります。大社の中にはノートが数冊、遠方から山梨百名山登頂のために足を運んだ登山者に加えて、地元の人たち、この地で林業に従事する人たちの祈り、感謝の言葉が記されていました。地元に根差した神社と言ってもいいのでしょうか。
大社の側壁にあった神奈川大学名誉教授望月眞澄氏の三石山勧進帳の抜粋の訳をさらに要約すると、
安産、長寿、幸福、雨乞いの霊験あらたかであり、身延山三十一代日脱により三石山金福寺と号された
らしいです。神仏習合の形が見てとれますね。
身延山久遠寺
身延駅に下山、バスで身延山に向かいます。
すごい階段。階段のそばには男坂、女坂という階段を使わなくても境内に入ることができるルートも用意されており、体力に不安がある人はそちらを使うようにと注意書きがありました。
体力に特段不安があるわけではないので、階段を選択。が、すぐに後悔することになりました。まず、一段一段が高い。
ここで退いては男が廃るというよりかは、行くにも退くにも中途半端な所まで来てしまったために進まざるを得ません。手すりに頼りながら、何とか上まで行くことができました。
うーん、高い。今日一日の行程で一番疲れました(苦笑)。
境内を散策していると、どこからともなく力強い太鼓の音とともに「南無妙法蓮華経」と野太い声が。周りを見回すと同じくらいの年端もしくは下の青年たち5,6人が団扇太鼓を叩きながら、こっちに近づいてきます。
身延山大学の学生さんでしょうか。時間は17時前、いつでも見ることができるものなのか、たまたま折がよかったのかはわかりませんが、とにかくよいものを見ることができました。
山本坊
「南無妙法蓮華経」が遠ざかるのを聞きながら、今日の宿へ。お風呂に入り、夕食を食べました。やはり、肉は出ません。野菜が中心でアジの塩焼き、刺身など出ても魚です。まさか、海がない山梨県でお刺身が食べられるとは思いもよらず驚きました。コロナの影響もあってか他のお客様とは隔離され、一室で食べました。
この日は翌日6時からの朝のお勤めに参加するために早く寝ました。それではまた後半にて。
参考資料
日蓮聖人略歴
身延山宝物館『日蓮聖人略歴表』
思親山由来
思親山/富士の国やまなし観光ネット 山梨県公式観光情報 (yamanashi-kankou.jp)
身延山三十一代日脱上人
日蓮宗 日脱上人 資料 (jyouseiji.jp)
団扇太鼓
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