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【無料で読める】「こんなはずじゃなかった」を乗り越えて、小さな成功体験を積み重ねていく

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「こんなはずじゃなかった」という思い

おもえば、オムスビとしての活動も、そもそもで言えば私が会社をやめることとなった体験も、その後教育や地域づくりに関わりたいと思った理由もこの「こんなはずじゃなかった」というような思いが根幹にあったことに気づいた。

社会に出た若者の「こんなはずじゃなかった」

私が新卒で入った会社は、成長まっただなかのITベンチャー。入社時は1000人ちょっとの会社で、同期は191人。次の年の新入社員は約600名、また次の年は900名・・・と、3年立つ頃には上から1/3にいるような状況だった。

前職の職場が入ってたアーク森ビル

ベンチャーあるあるだが、特に前職の会社は若いうちから難しい難問に挑戦させ、その困難にぶち当たることで成長を促すシステムだった。しかしながら、システムの規模の増大や求められる要件の細分化によって飛躍的に難易度が上がっている会社の状況に対して、入ってくる私たちの新卒社員の質というのはそうそう変わらない。1個下の世代は2年で半数が辞めてしまうという状況は、私にとっては異常事態に思えた。

多くの新入社員が、当時人気日本一とも言われた企業に満を持して入社し、これからの未来の活躍を期待して入ったはず。それが、たった1年やそこらで、やったことのない「課題の解決」に取り組まされ、出来なれば「俺のときは当然出来たようなことも出来ない無能な社員」という評価をされる。希望に満ちていた顔はいつしか曇り、ときには精神を病んだりして会社を辞めていく。

私は幸いにして結果を出せる側にいたが、その違いが元の能力や努力に違いにあるとは思わなかった。結果を出せている人と、そうではない人の大きな違いは「答えのない課題に向き合い、仮説を立て、解決に向けて試行錯誤を何度もしてきた経験」があるかないかだと感じた。

学校のカリキュラムにないような、そんな人によって得られるかどうかが大きく左右されるような体験が、活躍できる人と希望を失っていく人を分けてしまうのは、少し理不尽だと思った。

前職ではこれを変えようと、不出来と言われた社員に教育を施したり、以前とは状況が違うので社員教育をすべきだと部門長に訴え提案したりもしたが、力及ばず変えることが叶わなかった。私自身のキャリアも行き詰まりを感じていたこともあり、自分も心身に限界を感じて会社を辞めることにした。

地域の人たちの「こんなはずじゃなかった」という思い

そんなわけで、会社を辞め「若い人たちに課題解決の経験をもっと平等に得られるような環境をつくれないか」と考えた。教育系スタートアップへの転職なども考えたが、どうせやるなら地方のほうが意義深い、と思い、なんやかんやあって南相馬市に来ることになったのだった。

そして、小高という場所に出会い、このゼロになったまちに新しい教育のシステムを作り出せる可能性があるのではないか、そういうふうに考えて本腰をいれるようになった。そこから、記事に書いたハッカソンなりOMSBなりの活動を経て、少しずつ地域の声に触れてきた。そこで、前回も触れたこの男性の声にたどり着く。

「せっかく戻ってきたのに、飯食う場所も買う場所もほとんどなくて、結局毎日一人でコンビニで弁当買って食ってるんだ。自分のふるさとだと思って戻ってきたんだけど、こんなはずじゃなかったんだけどなぁ・・・」

じいちゃん、今ならご飯食べられるよ。一緒に話しながら食べよって言いたい。

振り返ってみれば、この方のなんでもないつぶやきにここまで大きく心を揺さぶられたのは「こんなはずじゃなかった」という気持ちに共感したからだと思う。食は私が幸福度に直結する優先度の高いと考えているものであることもあいまり、それをなんとかしたいと考えた。

変えようとしてきた自分たちの「こんなはずじゃなかった」という思い

しかしながら、そうやって人の気持ちに寄り添ったことを言うのはキレイだが、何よりも自分自身が「こんなはずじゃなかった」という思いを抱え続けて生きてきたのだ。

中学生の時にやっとのことで手にした背番号を、親の都合で行けなかった試合のために1週間で剥奪されたとき。高校のときに周りと調和できずに1週間誰とも会話できずに高校に通学したとき。大学のときに逆に周りの顔色を伺いすぎて自分が何をしたいのかわからなくなったとき。そうやって私も自身の環境に振り回されながら、その時々に助けてくれた人たちのたった一声や、こんな性格の破綻している人間に諦めずに付き合ってくれた大学の先輩たち。企画書のバージョンが48になるまでひたすら課題に向き合い思考を掘り下げることを要求し、その回数だけレビューに付き合い続けてくれた大学の学生団体での経験。それら経験によって私は少しずつ自分の自信と人間性を身につけ、なんとか生かされてきた。

退職直後に大学の先輩後輩と再開したときの写真

そして、私の性質上何でもやりたがるし、なんでも器用にやれるのでほとんどのことは平均以上にできるが、逆に一番になるほどの成果を出せない。なにか1つに集中して努力したら大きな結果を出せたのかもしれないと思いながら「いつもあと一歩のところで状況を変えられない」自分自身に苦しんできた。

前職時代でもそうだったし、小高にきても、あまりに大きな地域課題の難易度に、私はたいした成果を出せていなかった。しかし、こうやって小高という場所に向き合いながら、収益化の問題や仲間の問題にもぶち当たりながら、理想を追いかけながら自分たちの「できること」を増やしていくことにフォーカスしよう と考えるようになって、少しずつ手応えとやってきたことの一貫性を感じるようになってきた。

「こんなはずじゃない」とならないのはどういう状態なのか

そもそも人が、「こんなはずじゃなかった」と思わずに充実し幸福な生活を得られるというのは逆に言うと何が必要だろうか?幸福度の研究なども紹介しながら、私の持論も踏まえて整理したいと思う。

「健康」「人間関係」「自己決定」が幸福度を決める

神戸大学、同志社大学の研究によれば、「健康」「人間関係」と、それに続いては所得や学歴よりも「自己決定」が幸福度に影響するという研究がある。

良い人間関係

こちらは海外の研究ですが、良い人間関係こそが幸福度にとって重要であるとしています。逆に言うと孤独は幸福を大きく蝕むものであるとしています。

人と関わり、できることを増やし、困難にあっても課題に向き合い乗り越えていける状態

完全につながっているかと言うと少々論理の飛躍もあるが、このような研究内容をみたり自分自身の体験を振り返りながら「人と関わり、できることを増やし、困難にあっても課題に向き合い乗り越えていける状態」をつくっていくことこそが、絶望を振り払い豊かで幸福な生活を送るために重要な要素だと考えている。

私にとって「まちづくり」と「困難を乗り越える力をつける」は連動している

ちょっとどれだけうまくまとめられているかわからないが、そういうわけで私にとっては、「まちづくり」と「困難を乗り越える力を身につけていく」は連動している。というか、人によって程度は変わるものの「困難を乗り越える力を身につけてもらう」ことこそが、「まちづくり」だと考えている

たくさんの人が地域に関わり、自分の状況をよくできるように。

それゆえに、私のまちに対する基本的な理念は一部の人が大きな決定をしてそれを他の人達が従っていれば幸福になる、というモデルではない。

いくら客観的に経済が活性化し、便利な店舗が出来ても「孤独」で「問題が起きたら解決不能になる」のであれば、それは空虚である。移住者がいくら来て活性化したようにみえても、仲間はずれにされたような気持ちになり、気持ちが塞がっていくような人たちが増えていくのであればそれは正しいとは思えない。

逆にいえば、客観的には多少不便であっても、地域を通じて「人とのかかわり」を多く持つことができ、ときに助け合いながら困難を解決していけるのであれば、幸福な地域である、と考えている。

そのためには、多くの人たちが、「地域にかかわる」ということでなんらかの接点を持ちながら、生活の不便さや困りごと、やりたかったけど出来ずにしたことを解消していける状況を作ることが、私にとっては重要なまちづくりの考えだ。

2017年に開催した小高のハッカソンでは「自分でつくればもっと楽しい」と題して開催したなぁ

社会参画は何もフルコミットすることではない。

社会参画というのは何も私たちのようにコミットして大きなことをやろうとすることだけではない。地域の小売店に「これおいてほしい」といって「仕入れました」と言ってもらえる関係性があることも「イベントに来てね」とお願いされて「お願いされたから来てみたよ」というも社会参画だと考えている。この行為によって、地域に確実に影響を与え、人との関係性を生み出すことができるからだ。逆に言えば関係性をつくれることも重要とも言える。

人によって最適な関わりがある。その最適な状態を選べることが重要。

私は、地域の全員が私みたいにゴリゴリなまちづくりセクションにいることが健全だとは当然思っていない。ゴリゴリな人もいれば、ちょっとイベントに声かけられて参加するだけな人もいれば、その間で事業にしないまでも地域で自分のやりたかったことをやってみたい、という人もいる。重要なことはその人に取って最適なかかわりの状態を得られることだ。

地域の接点となる私設公民館「アオスバシ」

そういう経緯を経て、今の私設公民館「アオスバシ」は運営している。最初に「地域の人達の日常を食を通じて豊かにする」ことを掲げ、パン屋がほしいという声に応えて「冷凍パンを主力商品として取り扱うカフェ」として開始した。実際にフタを開けてみたら当初こそ良かったもののあんまり地域の人に馴染んだとは言えなかったのだが、そこからもう一度地域の人の声を聞き直し、本当にやりたかったことを実現しよう

「やってみたい」「あれがほしい」声を上げたことが実現できる

アオスバシおよび森山は「やってみたい」人の駆け込み寺のようなポジションをありがたいことに獲得しつつある気がする。

「いつかは自分のこだわった材料でつくったお菓子屋をやってみたい」と話す地元の女性が来てくれた。いつかと言わずにうちで試しにやってみてくださいよ、と言って最初は飲食店の範囲で試食を提供してもらいながら、並行して菓子製造の許可を厨房で取得した。今は取扱量も増えたのか、イベントに向けて3日くらいこもりっきりでお菓子を作っている姿も見ることが増えた。

また住民の人たちから「◯◯もおいてほしい」という声があったらできるかぎりの範囲で仕入れるようにしている。こだわりの調味料とか、無添加のものとかが多いが、「ライスバーガーがほしい」と言われたので松屋のライスバーガーみたいな若干ジャンキーさを感じるものもおいてたりする。

「どうせ何をやってもよくならない」と思うことが多い地域の状況に「声を上げたらちゃんと仕入れてくれた」という小さな変化体験が、なにか楔を打ち込めるものになってくれればと思っている。

「やってみた」を「うまくいった」にできる

社会参加のファーストステップでありがちなのが、「やってみたはいいものの、全然お客さんが来てくれなくてがっかりして辞めてしまう」というものがある。特にこの地域は人口が3800名。簡単には人が集まらない。

そこで、集客のお手伝いとして、チラシをこちらで作って広報することなどもしている。

もちろん、チラシを撒いただけではなかなか人が来てくれるようにならない。私たち自身もかなり苦労した。

そこで、ある程度関係性ができるまでは地域の家々(同一自治会内の50軒程度)を1軒ずつ周り、チャイムを押してはイベントのお知らせを告知して回ったのだ。1,2回では怪訝そうな顔をされたが、3,4回配るとそんな人もぽつらぽつらきてくれるようになった。5,6回配ればだんだん顔なじみのように雑談するようになってきて、今は誰がどういうことが得意とか、どんなことに困ってそうかというのも少しずつ分かるようになってきている。

参加の間口を広げる

参加の間口を広げることも大事だと考えている。つい先日子供向けにハロウィンのまちあるきイベントを行ったが、お菓子がもらえる家として、そうやって1軒ずつ回っていった方にご協力をお願いした。

こうした仕掛けによって「チラシ撒きにときどき来る人」から「地域のイベントの実施を助けてやった人」に昇格してもらえることを狙ってもいる。ほぼ他人事だった「アオスバシ」で行われる活動が前よりもう少し「自分の身の回りのこと」に近づけてもらえたら良いなと思っている。

事業化に限らない持続可能性を目指す

アオスバシが他のインキュベーション施設のようなものと大きく違うのは、地域をよくするための持続可能性を重要視しながらも「事業としての採算性にこだわらない」点にある。持続可能であるならば収益事業でなくてもよい。

たとえば先日行われた「坊主バー」。近くの住職が月1回程度開いているが、ほぼ趣味の延長で、ノリは家飲みに近い。メニューは数日前まで決まっていないし、途中から色々追加されるし、フランスから来たサックス奏者のライブがはじまったりする。普通の居酒屋より2-3割安い値段で設定されているが、「月1回の趣味」だから、ちょっとのお小遣いになればいいくらいの収支で楽しく継続出来ている。

あるいは、最近始まった子どものいる親をメインターゲットにした英語発音塾。子ども連れで一緒にご飯を食べて、そのあと子どもは発音遊びで英語を学び、大人はきっちり講座を受ける。今回は無料で講座開発者の先生に学んでいるが、半年〜1年後には逆に教えてもらう側に回ってもらう想定でいる。そうしてペイフォワードの仕組みをつくれば、地域の人はずっと無料で英語を学び続けられる。ご飯を一緒に囲むことで、地域の関係性も作っていくことも出来たらいいと思っている。

周りに頼りながら少しずつレベルをあげていく

アオスバシの最初は冷凍パンをはじめたが、結局のところ自分でも納得いってない部分はあった。たしかに美味しいパンを出している自負があるが、パンだけだと栄養は偏るし、やりたかったことはこれで全部じゃないよな、という気持ちもあった。

そんなときに出会ったのが、うちで働けないかと相談に来てくれたモッチーこと宗像さんだった。なんとなくこの人は情熱があっていろいろ行動してくれそうだなぁ、と思ったことや働く日の条件も一致したので、来てもらうことになった。

いい写真。モッチーは現在ハートビートベースという飲食店を営業しているのでぜひみなさん言ってみてね。

ほどなくして、「私ここでスープつくったらどうかと思うんだけど」という提案をしてくれた。私が思ってたもともとの思いなども共有しぜひやってほしいお願いし、すぐに試作と販売が行われるようになった。

こうした取り組みに続いてくれたのが、関場治美さんだった。元々ある程度お話する関係ではあったが「高齢者の方にも食べられる定食を出すような取り組みをしてみたいと思っていた」ということで、うちでぜひやってほしいとお願いし、実現することになった。

関場さんは管理栄養士。薄味だけど物足りなくない、丁寧に作った料理をだしてくれる

1軒1軒一緒にチラシを配って周り、ときには足の悪い方のところには注文を聞いて直接届けにいった。

定食。当時はあまり器がなかったんでちょっとアンバランス

さらに、そのあとにはタイ人の渡邉ナンタナさんが使いたいと相談に来てくれ、タイ料理が食べられるように。

いつもなんかくれるタイプのお母さん

タイ料理は高齢者というより地元の比較的若い世代に愛されている。この地域でときどきこういった珍しい料理が食べられるのは本当にありがたい。

パッタイ。まずいわけない。

そんなわけで、振り返ってみれば60前後の女性陣にアオスバシの食の大きな部分を支えてもらっていた。今はそこから30代の方にもバトンがつながって、今度は若い感性でスパイスカレーや、彩り豊かなランチを提供してくれるようになった。みんなであーだこーだと言いながら、もうちょっと良くするにはこうしようとかああしてみてはどうかと言いながら、質や体験全体の改善に努めている。最終目標は1ヶ月間毎日いろんな人の日替わり店長で埋め尽くすことだ。


トラブルがないわけない。それでも。

とりあえず自分の話を書き出そうと思って書き始め、ようやく現在地まで到達しました。細かいところはまだまだ書きたいことがあるのですが、大筋は書ききれて一安心。

こうやって書くまでにいろんな人から「当時のことを思い出してアツい気持ちになったよ」とか「森山さんがここまで頑張ってくれてるとは思わなかった」とか「あのときのこと整理してくれてありがとう」とか、いろんな温かい声をかけてくれる方がいました。ありがとうございます。今のところ誹謗中傷はありません笑

実際のところ、ここにはとてもかけないような重大なミスとか、いろんなやらかしもやってきています。きれいな話ばかりではないし、私が至らぬせいで傷つけてしまった人たち、不快な気持ちになる人もいたでしょう。この道のりの中で多くのトラブルを経験してきたし、市役所職員とは今でもバチバチでやりあって(きっと大した成果もないのにうるせえなぁと煙たがられて)ますし、特定の事業者に妬みのような感情も未だに持っていますし、まぁそんなに清廉潔白な人間ではなく、ホコリだらけとは思っています。

それでも、私がこれまでやってきたことのプロセスの中には、きっとこれから多くの人たちが活動を始める上で価値の重要な要素が多くあると信じているし、それを発信することがこれからの私の役割だろう、と思いはじめてみたところです。

特別な人間はいる。でも特別じゃないと何もできないということじゃない。

みなさんに伝えたいことがあるとすれば、「特別な人間はいる。でも特別じゃないと何もできないというこじゃない。」ということです。たとえば大谷翔平を見ていると、体格にも恵まれていて努力も欠かさず、人格にも優れている上に時代にも運にも選ばれて続けているとしか思えません。普通の人が同じだけの努力をしようとしても到達できない境地もと認めざるを得ません。

しかし、だからといってそれは「普通の人間は何者にもなれない」ということではないということです。高校野球を見てるとわかりますが、野球のプロになれなくても、野球で人の心をつき動かせないということではない。私が清廉潔白な人間じゃなかったとしても、継続的な努力が苦手だとしても、できることはある。事業にするほどの時間やお金をつくれなくても、自分の料理を沢山の人に振る舞って誰かを喜ばせることはできる。

そして、それを通じて多くの人たちと関係性をつくっていくことが、その可能性を大きくしていくのだと思います。大工さんや設計士さんと知り合うことで自分たちも一緒にリノベーションができる。農家さんやお菓子屋さんと知り合うことでIT農業とか六次化商品開発とかができる。料理ができる人と知り合うことで毎日の定食を提供できる。私たちの活動は、自分たちだけで成り立ってきたわけではなく、当然そうやってさまざまな人達と関わりながら、活動を大きくしてきました。そしてその連続がいつか地域社会の風景や、人と人との関係性そのものを大きく塗り替えていく、と信じています。


現在までかけてよかった。

基本的には怠惰で継続しないので、「記事を書くまではスプラ(トゥーン)禁止」と毎日20時に予定を書き、強い制約と誓約を課してこの記事を書いてきましたが、まずは自分の活動のことをとりあえず現在まで書ききれてよかったなと思っています。

少しペースを落とすかもしれませんが、当分は続けていく予定です。次回以降は、この話の間に落ちている話や、移住直後に地域あるあるな洗礼を受けたエピソードゼロの話、失敗した話などの体験系もそうですが、あるいはこれらの話から抽出できる大事な要素についての解説や、これから何かを始めようとする人向けの行動指針となるような内容の記事更新もしていこうと思いますので、今後ともお付き合いいただければと思います。

ここまで読んでくれた方、興味をもってくれてありがとう、ご期待に添えるものだと嬉しいです。最後にこの下の♡マークをポチーとしてくれるととっても喜びます

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