#1 200年どころではなかった!!~実家の歴史について~
私の亡き父方のルーツは広島県庄原市総領町という中山間地域にあります。
口伝によると、祖先は平家の落人です。菩提寺は何度も火災に見舞われ先祖の詳細な記録は失われたので真偽の程はさだかではありませんが、家紋は「扇に八の字」なので、武士に所縁のある家だった可能性は考えられなくもありません。
さらに、この上なく最奥地にあり、この場所なら人目につくこともなく落人伝説もまんざらでもないかもと想像します。
ではなぜ今回改修する予定の母屋を「推定約200年」と説明してきたかといいますと、亡曾祖父の除籍謄本に記載されている最も古い先祖が弘化2年(1845年)に生まれた高祖父(祖父母の祖父)だったからです(除籍謄本をとれば誰でもある時期までの自分の先祖を辿ることができます)。
しかし、今回、なんと新たな事実が発覚!!
というか、私がちゃんと確認していなかっただけ、なのですが💦💦💦
遡ること12年前。
2011年に父が病で亡くなったとき、母は総領町の母屋にあった仏壇が粗末になってはいけないと菩提寺の住職さんに相談して「仏壇じまい」を執り行ってもらいました。古い仏壇は仏具屋さんに引き取ってもらい、三次の実家に新しい仏壇をしつらえて古い仏壇に供えてあった位牌のみ移動しました。
しかし、翌2012年の暮れ、今度は母が病で亡くなりました。
立て続けに両親を看取り、あの時期は本当に辛かったです。
三次の実家で母の三回忌法要を執り行ったあとは実家を手放すことが決まっていたので、姉と私は母が選んだ新しい仏壇の「仏壇じまい」を執り行わねばなりませんでした。
再び菩提寺の住職さんに相談したところ、檀家さんで仏壇を望んでおられるかたがいると聞き、仏様に供えるつもりでお譲りしました。
位牌は菩提寺に保管していただくことになりましたが、「万が一また火事があってはいけない」と思い、写真に撮って保存しました。
見たことのない年号がずらっと書いてありましたが、どういうわけか私は「古い年号はきっと1845年以降だろう」と勝手に思い込み調べようともしませんでした。実際、調べる時間的余裕もありませんでした。
思い込み、というのは、いけませんね…
このnoteを始めるにあたり、まずは歴史から!と思って除籍謄本のことを書こうとしましたが、ふと位牌の写真を思い出し念のため確認することにしました。
そうしたら… なんと、出るわ出るわ!
驚きの事実に鳥肌が立ちました!
以下時系列にまとめてみました。
享保17年(1732年)
寛政4年(1751年)
宝暦9年(1759年)
享和3年(1803年)
文化14年(1817年)
文政6年(1823年)
文政12年(1829年)
天保2年(1831年)
弘化3年(1846年)
嘉永3年(1850年)
安政7年(1860年)
慶應2年(1866年)
最古の戒名札は1732年、約300年前だったのです。200年どころではなかった!
最新の1866年以降の位牌がないのはなぜ?という別の疑問がわきましたが、浄土真宗は位牌を作らないという話を住職さんから聞いたことがあるので、もしかするとその頃に先祖は浄土真宗に改宗したのかもしれません。
肝心の建物の歴史までは正確なことがわかりませんでしたが、位牌があったということは当時から先祖が現在の場所に住んでいたのはほぼ間違いありません。
あと手がかりとなるのは蔵の所蔵品のみです。
今はまだ手をつけられていない蔵の中にもしかしたら手掛かりになるようなものがあるかもしれないので、歴史探偵は今後も続きます。
何百年も住み継がれたこの地の最後の住人となったのは亡祖母(2006年に他界、享年満90歳)でした。
亡祖母は大正5年(1916年)生まれです。
昭和7年(1932年)7月23日に同じ総領町の黒目というところから長男だった亡祖父のところに嫁いできました。
2人は5人の子をもうけましたが、昭和19年、亡祖母が29歳のとき亡祖父は太平洋戦争で亡くなり、亡祖母は義両親と5人の子どもたちの大黒柱となりました。
亡父は当時まだ8歳でしたが一家の父親代わりとして長年亡祖母を支え続けました。母と結婚後、両親は隣の三次市に居を構え、亡父は会社勤めをしながらほぼ毎週末私たち家族を連れて総領に帰省し農作業をして田舎を守り続けました。姉と私にとっては第二の我が家のような場所でした。
やがて姉も私も成人し、結婚して他家に嫁いだため、先祖が大切にしてきたこの田舎の跡継ぎは父が最後となりました。
時代の流れ、といいましょうか。
結婚は家同士のものではなくなった現代では「跡継ぎを絶やしてはいけない」というプレッシャーはごく限られた世界にしか存在しなくなりました。
私自身、結婚は個人同士が決めることだと思いますし、結婚して名字を変えるかどうかは選択制にするべきだという意見です。
ただ、そういったしがらみからではなく、経年が生む「古き良きもの」を守りたいという想いはあります。
昨年、コロナ禍で約3年ぶりに総領へ帰省し、愛着のある家や土地が荒廃しつつある姿を目の当たりにして、長い間眠っていたDNAが反応し「何とかしなければ」と物凄いエネルギーが体の中から湧いてくるのを感じました。
そして再びこの場所を人が集う場所にしたいという強い想いからプロジェクトの立ち上げを決意しました。
あれから1年半。
まるでご先祖様が長い間待っていたかのように
再生に向かって目に見えない力で後押ししてくれているのを感じてきました。難題につぐ難題が降って湧いてくるたびに、手を差し伸べひょいと暗闇から救い出してくれるキーパーソンとなる方々が現れるのです。「これがダメならもうやめよう」と何度も思いましたがその度にダメにならないので、これは「やりなさい」ということなのだろうと解釈しています。
これからもっと多くの難題が待ち受けていると思いますが
自然の流れに身を任せ感謝の心と謙虚で真摯に向き合う強い意志を持ち続ければ乗り越えていける気がします。
つい最近のOMOYA総領です。
奥田工務店代表・奥田順紀さんに送っていただきました。
プロジェクトの主軸を担っていただいています。
この日は材木の搬入と一部解体作業をしていただきました。
いよいよ!という感じです。
奥田順紀さんとの出会いがなければプロジェクトは全く進んでいなかったと思います。
奥田さんにはこれからも何度となくこのnoteにご登場いただくことになっています^^
これまでの経緯や今後の進捗状況を綴っていきます。
ところで、写真の右側にあるもみじの木。
子どもの頃は胸くらいの背丈だったのに今では家の中から紅葉を愛でられる高さになりました。
来年はもう少し綺麗に剪定して、リラックス空間に生まれ変わった「OMOYA総領」から、訪れる方々に素晴らしい紅葉を楽しんでいただきたいなーと夢は膨らみます💕