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#1続編 地名「五箇」と「平家」の深い関係

OMOYAのある場所は「五箇」と言う地名です。
その地名、見たことある!という方も少なくないと思います。

今から16年前、山形県鶴岡市から神奈川県茅ヶ崎市へ文庫蔵を移築再生して自宅を建てた際、建具に使う和紙を選んでいて偶然富山県の和紙の里「五箇山」を見つけました。
何か縁のようなものを感じました。

確か今年の2月だったかな、OMOYAのご近所さんが全国にある五箇の地名を調べておられたというお話を聞き、「そういえば富山にも五箇山があったな」と思い出し、いつか私も調べてみたいと思いました。

5月に入ったある日のこと。
朝、目が醒めると、突然「五箇」と「平家」というワードでググってみようと思いつきました。
いつものように、空から降ってきた感覚です。
すると、驚くべき情報をみつけました。

熊本県八代市のホームページより

みなさんは五家荘という名前に隠された秘密のお話があることを知っていますか。実は、全国の平家の落人が住んでいる殆どの村にはすべて「五箇」がついているのです。例えば、島根県隠岐島の五箇村、京都府船井郡の五ヶ荘村、京都府峰山町の五箇村、滋賀県神崎郡の五箇荘町、岐阜県の五箇谷、岐阜県度合郡の五ヶ所町、福井県大野市の五箇村、富山県東礪郡の五箇山といったぐあいです。この私たちが住んでいる五家荘も、むかしの室町時代から江戸時代までは「五箇庄」と書いていたそうですが、いつの間にか五家荘に変わったようです。では日本全国に散った平家の落人(残党)は、なぜ「五箇」の名にこだわったのでしょうか。その理由は、平家で一番活躍した人たちに関係があるようです。平清盛の兄弟は「」人でした。清盛の子どもである重盛の兄弟もまた「」人。清盛の弟教盛の息子たちも「」人で、この人たちはみんな平家の中心となって戦い、源平合戦にはそれぞれ重要な役割を果たした人物たちばかりなのです。つまり、平家一族に勢いがあり一番幸せな時を過ごしていた時に、生活の周りに数字の「 」がたくさん関係していたようです。ところが、平家がどうも源氏に負けてしまいそうだと感じた平家一族は、全国にそれぞれ散り散りに逃げることとなった時、ふたたび平家が復活(再興)するためにこれから住むこととなった場所には「五箇」という名前をつけることを確認し合ったのです。生き残った平家が全国に逃げて散らばったとしても「五箇」という秘密の合言葉で、仲間であることが確認できること、そしてチャンスが来た時に一致団結して立ち上がることができるよう家来(家臣)たちにとそのことを伝えたのです。それを聞いた家来(家臣)たちは、みんな全国の人里離れた隠れ里にじっと身を潜め、その場所に「五箇」の名をつけました。近い将来に再び平家の仲間が一致団結して立ち上がる時が必ずくると信じて、そのチャンスをずっと待っていたのです。たとえ自分たちの代には復活(再興)はかなわなかったとしても、必ず子どもや孫の時代に各地の「五箇」という合い言葉でつながりを持ちつづけた仲間たちが連絡を取り合って、きっと平家の復活(再興)を実現してくれると信じていました。しかし、天下に栄華を極めた平家一族の復活の夢は、とうとう実現することもなく地名だけが今に残っているのです

熊本県八代市のホームページより

やっぱりそうだったのか!
雷に打たれたような衝撃と同時に、いろんなことが腑に落ちていきました。

私の亡母は亡祖母が亡くなった後、「黒のアゲハ蝶はおばあちゃんのような気がして、あ、おばあさん来てくれたんじゃね、って思うんよ」とよく言っていました。不思議なことを言うなあと思っていましたが、確かに黒のアゲハ蝶はかなりの頻度で独特な存在感を放ちながら姿を現してきました。
茅ヶ崎の庭やバルコニーにも度々飛来したことがあり、その度に私もいつの間にか「あ、おばあちゃん」と心でつぶやいていました。
私が昨年からOMOYAで作業をするようになって通算3か月は超えますが、黒のアゲハが来ない日は珍しいほどです。
しかも、何度も私の周りをグルグルしてから去っていきます。

ふと、「平家の家紋はなんだろう?」と調べてみて鳥肌が立ちました。

平氏の代表的な家紋は「揚羽蝶」だったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F

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【2024年7月4日 追記】

ある日、いつものように蝶が私のそばに来て目の前にとまり、
ゆっくりと口吻を伸ばし、そしてまたクルクルと元の位置に戻しました。
その瞬間、頭の中に一つの絵が浮かびました。
屋根の上部にある、謎のモチーフです。
ロゴのデザインをお願いしているデザイナーの金子弘美さんからも「このモチーフの意味はなんですか?」と訊ねられたことがありましたが何を表しているのかさっぱり見当がつきませんでした。
今は、蝶の口吻で、蝶が翼を広げているように見えます。
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「#1」の冒頭で紹介したように、代々うちは「平家の落人」と言い伝えられてきました。
証明するものもなければ特段お宝のようなものも残っていません。
長い長い年月の間、息を潜めながら目立たないように生き延びてきたとしたら、何もないことも説明がつきます。
さらに、子どもの頃からずーっと思っていたことがありました。
なぜこんなに山奥なのに亡祖母も亡父も親戚も「自分達は違う」という空気を醸し出しているのだろう?
何か「魂の品格」のようなもの感じていました。

「もし本当に私が平家の落人の子孫だったとして先祖が私に源氏への報復を期待して五箇へ呼び戻したなら、私は先祖の本意に背くことになってしまう」

そんなことまで考え始めてしまい、急に一人で重圧を感じるようになっていたら…
ある日、米作りをお願いしているご近所さんがほうれん草のお土産を持ってきてくださったので、「あ、そういえば田植えの時期だけど田んぼ見に行ってないなー」と思い出し、その日は普段は通らない道沿いにある田を見に行きました。
うちの田を望む場所に神社の祠があります。
ご近所さんが草を刈ってくださっていたのでお詣りできました。
ありがたいです。
昔、子どもの頃お祭りの後ここで着物を着て亡祖母と亡母と姉と私で写真を撮ってもらったことを懐かしく思いだしました。

写真を撮ると、虹が映り込みました。

この虹。
そういえば、鎌倉でも映り込んだことがある。

思い出しました。
鎌倉・腰越の満福寺にある「弁慶の腰掛石」です。

鎌倉 腰越 満福寺

2年前、娘が漫画「スラムダンク」で有名な高校に進学し、鎌倉と縁が繋がりました。
満福寺はちょうど娘の学校の最寄り駅から江ノ電「江の島」駅までの道すがらにあります。

何かがすとんと落ちました。
そうか、もしかしたら私に与えられた使命は、源氏と平氏の怨念を沈め、五箇を和平の象徴の場にすることかもしれない。


【2024年7月4日 追記】
そう思い始めたら、源氏ゆかりの方々との繋がりが次々と浮かび上がり、私を支えてくれる存在だったことに気がつきました。この話題は後日ゆっくりと。


時同じくして、NHKの朝のニュースで山田太一氏の昔のインタビュー映像が流れました。

山田太一さん

「現在のドラマを書こうと思ってテレビの世界に入りました。過去を書くまい、未来を書くまい。現在をしつこく書いていこうと思ってやっていたが、やっぱり人間は大半は過去の産物ですよね。やっぱり過去というのは無視できないと思うんですね」

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240419/k10014425831000.html

過去は無視できない。
OMOYAプロジェクトの新たな意義を見出しました。

母屋の改修が一段落したら、母屋裏手にある、日出る方向から感じるすごいエネルギーを発する場所まで歩いてみたいと思っています。

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