博士号取得への道(という講演をしたのでメモ)~問いの話~
ご依頼をいただき、そんなお話をしました。最初に書いた記事がいまだに見られており、しかもフォローまでいただくことがあるようなので、博士ネタとして書いておこうと思います。例によってn=1の個人的経験のお話ですのでご了承ください。
ケース:私の博士号に至るまでのマインド変化
※ここは読み飛ばしてもいいですw※
前回の記事が大変エラそうな内容でしたので「さぞこの人はちゃんと勉強したのだろう」と思われたかもしれませんが、実際は全くそんなことは無く、私の5年間はこんな感じでした。
MBA時代に進学を決めたのは良い物の、いざ進んでみると「MBA終わったんだよね!」という事でいろんな機会や仕事が舞い込み、自分自身も少し(かなり?)心が緩み、研究はほとんど進みませんでした。なまじMBA時代と同じテーマにしていたこともあって、その時の蓄積やアイデアなどで思索を練ることはあっても、ちゃんとした研究はできていませんでした。
転機は4年目で、先行研究をきちんと読んだことで自身の研究の位置づけが明確になり、それまで持っていたデータも活かせるようになりました。しかし、それまでサボった分は1年ではひっくり返せず、この年は一旦書き上げたものの口頭試問で致命的な指摘をいただき、提出を見送ることになりました。
一年かけて修正を行いましたが、それでも多数のご指摘をいただき、最後の一か月で根本的な書き直しを行い、やっとゴールしたというところです。
こんなお話をしつつ振り返ると、「自分こんなダメな人間だったな」と思う節が多々あるので、以下個別に書いていきます。
入口の疑問と本当の問い
博論を書くにあたっては(研究全部そうですが)、ちゃんとした問いを立てて、適切なデータを取り、分析データに基づいて執筆するという流れになります。このステップごとに、自分のダメっぷりをお話していきましょう。
まず問いを立てるためにはとにかく先行研究を読まなくてはなりませんよね。研究とはまだ誰も言っていないことを言うことであり、巨人の方に乗る事です。これは社会人博士100人に聞けば、全員が知っていると声をそろえるでしょう。しかし、昨日論文読んだ人? と聞くと、「もにょもにょ…」となる人がいる(いた)のではないでしょうか。はい、私です。
私ももちろんん全く読んでいなかったわけではないですが、問題は二つありました。一つは、量が圧倒的に足りない事。問いを立てると聞くと、何か独創的なアイデアを生み出そうとする人がいます。そういう形で何かが「降りてくる」ことはあるかもしれませんが、それも含めて問いとは圧倒的なインプットによって形作られる彫刻のようなものです。自身が扱う大きなテーマという素材を先行研究という彫刻刀で掘っていき、最後に残る部分なのです。「降りてくる」とは、その過程で朧気に姿が見えてきた時にすぎません。また、それ以前の思い付きや疑問レベルでは、研究の方向性を仮決めする入り口としては良いですが、研究の問いとしては具体性が無くて不適切です。録に論文も読まず、頭をひねってるだけの時間を過ごしている人は黄色信号かもしれません。
例えば私の扱う実践共同体は、一時期ビジネス界でも流行ったようにかなり魅力的なコンセプトです(なんせ従業員が自発的に勉強して会社に利益をもたらしてくれるのですから)。必然的に誰でも「これをうまく会社の中でやるにはどうしたらいいんだ?」と思います。しかしこれは問いではなく、先ほどの言い方に当てはめれば入口の疑問程度のものです。MBAの修了にあたり、神戸大学の三品先生から「問いをシャープにせよ」というお話がありました。「どうすれば利益が上がるか」は問いではなく、「なぜこんなに在庫が多いのか」まで分解しなくてはならないというものです。三品先生の言わんとするところは、「だからMBAで鍛えた問いを立てる力はビジネスでも大切だ」という事なのですが、翻って研究においても当然そうだという事です。また、同じことは京都大学の宮野先生も「問題を小さく狭くしなければ、結論は得られません」と仰っています(宮野, 2021)。しかし、当時の私は入口の疑問を本当の問いだと勘違いしていたように思います。
入口の疑問からは無数の道が伸びています。だからどの道をたどるべきかわかりません。先ほどの利益改善の例で言えば、在庫を減らす以外にも、営業力を上げる、商品単価を見直す…と様々な打ち手があります。その中で「なぜその打ち手を打つのですか」という事が説明できなくてはなりません。
そのことに気づけないと、毎回のゼミ発表でよくわからない説明を繰り返すことになります。前回と違うことを言い出したり、上記のような打ち手を羅列するだけで結局どれをやるつもりなのかわからない状態が続いたりするのです。特に大きな理論や概念を持ってきた段階ではこの状態に陥る人が一定数います。扱う素材が大きい(有名な)ほどその先には多数の道があり得るのですが、そこで露頭に迷ってしまって「これじゃない」と思ってしまい、違う素材を探しにいくわけです。
先行研究を読んでるようで読んでない
これを打破するにはたくさんの論文を読め、という話になる(間違っても持論一辺倒の「私が思う最強の解決法」を示してはいけない)わけですが、ここで私は二つ目の問題を抱えていたと思います。それは、論文の整理の仕方がわからない、というものです。例えば、先行研究の整理法の一つとしてマトリックスレビューというものがあります。ただ、どういう項目でマトリックスを作ればよいのかわからないわけです。なんとなく目についたもの、紹介されたものを読んでもピンと来ません。検索して大量の文献にアクセスできる時代ですが、逆に情報量におぼれてしまってどれを読めばいいかわからないといった状態です。
思い返すと最初からきちんと整理しなくてはいけないと思い込んでいたかもしれません。何か正しい方法、明確な道筋があるはずだと思っていたのかもしれません。マトリックスの項目なんて後から作り直して整理し直してもいいわけですし、とにかく読んだ分だけ気づきは出ます。私が論文を読んでピンとこないのは、その情報が点だったからで、これをたくさん読んでいくと線になり、面になるのですが、それを一つ読んだだけで「ピンとこない」と思って立ち止まっていたように思います。
これは狙ってそうしたわけではないですが、私がこれを脱却できた一つのポイントは、やはり他の研究に乗っかるということです。いくつかの論文を読んでいると、先行研究のパートで共通する指摘や批判が挙がっているものです。さらにメタアナリシスやシステマティックレビューがあればしめたもので、その領域のトレンドがかなり整理できます。大局がつかめれば、個別の論文がどういう位置づけの物なのかを整理することができます。例えば、私の例では実践共同体研究というのは「どうすれば社内でうまくやれるのか」という入り口から出発した研究が多いので、社内の実践共同体を対象にしたものが大半でした。しかし実践共同体自体はそのように閉じた概念ではありません。人間社会全体で見られる普遍的な営みなので、その方向からアプローチした研究がほとんどないという事に気づけたのです。
このような自分なりの着眼点が養われてくると、一つ一つの論文が生き生きと見えてきます。「あなたは主流派ですね」「あなたは変わった見方をしてますね」「こちらは…」と読んだ傍から頭の中の地図が埋まっていくような感覚です。読む量が増えると着眼点も増えていくので、その都度それをマトリックスの項目に据えていき、論文の渉猟とマトリックスの形成を並行して進めるような形で進んでいきました(これがやり方として良いかどうかは別です)。文字にするとすんなりやったように見えますが、実際には論文を山ほどリストアップしてきて上から潰すという地道な作業でした。結局はそういうフェーズがあるという事ですね。
以前にも書きましたが、最終的に参考文献リストに入れたのは、読んだうちの一部です。読んだからと言って文献リストに入るわけではないですが、しかし自身の血肉にはなっていて執筆を後押しする力になったと思います。
博論最初の山を越えたかどうか
問いを立てることは博論に取り組むうえで最大の山場です。しかも、山場と言いつつデータと向き合うと問いを変える事になったりして、ずっと付きまとう問題でもあります。それでも、一番最初のとっかかりとして、以下のような事がクリアできていれば、最初の山は越えたと言っても良いのではないでしょうか。
先行研究の中で自分の研究の位置づけが相対化できており、自分がが何をしようとしているか分かっている
この研究がなぜ必要なのか、相手に短い時間、言葉で説明できる
他の人の発表において「あれ?」と思う事が増える
1つめは既にここまで話したような事なので割愛します。2つめは、問いが明確であると同時にその重要性も大切だという事です。立てた問いが「確かに誰も今まで触れてこなかった」ものだとしても、「それが分かって何になるん?」という物では研究の価値が低いからです。謎が明らかになることによって、理論的、実践的に何かのブレイクスルーにつながるような(あるいはそれを直接起こすような)結果が期待できるものになっている必要があります。
3つめは、ここまでの過程を経てくると必然的に研究者としての地力が挙がっているはずなので、かつて自分が通った道にいる人の発表を聞くと「あれ?」と思うことが増えます。「なぜその理論を使おうと思ったのか?」「その単語はどういう意味で使おうとしているのか?」「AとBの変数をどういう関係でとらえているのか?」などなど…。ただ、「見えるぞ! 私にも発表のアラが見える!」などとマウントを取ってはいけません。そういう道を一度は通ってモノの見方を養うのが博士課程であり、かつては自分もそうだったわけで、もっと言うなら博士号を取っただけでは別に一流の研究者ではないのですから。
子供叱るな来た道だもの、年寄笑うな行く道だもの
ここまで書くとこんな言葉を思い出したのですが、実はこれには続きがあって
と続くのだそうです。
これを読んでいるあなたが今博士課程のどのあたりにいるかは分かりませんが、先達や後進の皆さんとともに、通り直しの出来ぬ博士の道を素晴らしい物にされることを祈っています。
参考文献
宮野公樹(2021) 『問いの立て方』.筑摩書房