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足跡

小学5・6年生の頃、担任のI先生が出す毎日の課題は自由勉強と漢字練習と日記だった。だから毎日3冊のノートを提出していた(たぶん)。

今考えたら小学生に対しとっても自主的なことを求められていたんだなと思う。おかげで鍛えられたのかもしれない。当時はまだまだ体罰が普通の時代だったし。

そのやり方が今の方法よりよかったかどうかはわからない。でも、自分にとってはよかったんじゃないかなと思わなくもない。だっていいイメージとして残っているから。

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日記のことを足跡と呼んでいた。自分が歩いてきた証。しかしながらどんなことを書いたのかというのはまったく覚えていない。

担任に読まれることを前提とした日記だから、担任に読まれたくないことは書かない(はず)。だからたぶんあんまりおもしろくなかっただろうな、足跡。

狭い路地で足跡を見つけた。

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この足跡、いつ誰が残したものだろう。よく見るとかなり不自然である。

両足をそろえてぴょんぴょん跳びながらつけたのだろうか。

消える足跡とこのように消えない足跡がある。足跡の主は知っているんだろうか。きっと知っていて、ここを通るたびに何とも言えない気持ちになっているはずだ。

足跡を見て、小学生だったころの頃を思い出したんだけど、それってもう40年くらい前の話だ。おそらくこの足跡はそこまで時間が経過していないだろう。

自分の足跡は、自分の記録。自分が自分である理由でもある。

SNSやブログなどに書き込んだ内容も、自分の足跡で、自分そのもの。うちなる自分が投影されている。

noteの中身は、まさに自分の足跡だ。

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