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夜明けの交差点で:第一部

第一部:出会いと予感

プロローグ

 人と人が出会うとき、そこには必ず物語の始まりがある。偶然かもしれないし、運命と呼ぶかもしれない。けれど、それが恋になるかどうかは、ふたを開けてみるまではわからない——。

東京の朝は、慌ただしく始まる。大量の通勤客を乗せた電車が何本も行き交い、コンビニの前でコーヒーを買う人の列ができる。広告代理店で営業をしている27歳の高橋真一も、そんな都会の喧騒に巻き込まれる一人だった。

この物語は、真一、さくら、そして光の三人を軸に動いていく。大学での友人関係、偶然の再会、SNSを通じた繋がり。そのどれもが単独では些細なことかもしれない。けれど三つの糸が交差するとき、彼らの運命は静かに、しかし大きく動き出すのだった。

 

第一章:朝の喧騒

朝8時半。都心のビジネス街にあるビル群の中で、ひときわ大きなガラス張りのビルの15階が真一の勤務先「株式会社セントラルエージェンシー」のオフィスだ。

エレベーターを降りると同時に、慌ただしそうに書類を持った同僚とすれ違う。

「おはよう、真一。今日は打ち合わせ続きだろ? 大丈夫?」

「おはようございます。うん、まぁ何とかするよ。終わったら週末だし、リフレッシュするためにも頑張らないとね」

真一は少し眠そうな目をこすりながら、いつものようにコーヒーを煎れに給湯室へ向かった。夜型の彼は朝が弱く、ギリギリまで寝るタイプ。

今日も数分遅刻するかどうかのラインを攻めて出社しているが、周囲にはそこまで不満は持たれていない。

むしろ明るく行動力があるため、仕事でもプライベートでも何かと頼られる存在だ。

紙コップを片手にデスクへ戻ると、デスクトップにはSNSの画面が開かれている。

広告代理店という仕事柄、トレンドを常にチェックする必要があり、真一にとってはこれが日課だった。

「先週のキャンペーン、SNSでの反応は……お、悪くない。フォロワーの動きは……」

スクロールしながら確認を進めるうちに、ふとあるイラストが目に留まる。

柔らかな色彩と繊細なタッチで描かれた女性の横顔。

その瞳にはどこか切ない感情が宿っているように見える。

投稿者の名前は

“三浦さくら”

フリーのイラストレーターとして最近注目され始めているらしく、フォロワーが数万人単位でいるようだった。

「いい絵だな……」

思わず心が惹かれた。

そして画面の右上を見ると、上司の北条からメールの通知が入っている。

件名は「新規案件のブリーフィング」。

嫌な予感を振り払うように、真一はメールを開いた。

「——新規のWEB広告案件。若手アーティストの起用を検討中。今日午後15:00に打ち合わせあり。事前に調べておくように。」

こういうタイミングの一致は珍しいことではないが、先ほど目にしたイラストレーターと偶然にも仕事で繋がりそうな匂いがした。

真一は一気に気分が高揚するのを感じつつ、コーヒーを一口飲む。

そしてSNSで再び“三浦さくら”の作品を眺めながら、思わずロマンチストな心がうずいた。

 

第二章:打ち合わせと偶然の名前

午後3時。会議室に集まったのは真一を含めて4人。

上司の北条とアカウントプランナーの女性社員、そしてクリエイティブディレクターの男性が一人だ。

会議室の窓からは、高層ビル群とその向こうに広がる空が見えた。遠くにはかすかに東京湾の水面が光っている。

「それじゃ、早速だけど今回のWEB広告案件について。

クライアントは新しいコスメブランドを立ち上げる女性起業家で、かなり尖った感性を持っている。

ターゲットは20代後半から30代前半の女性層。シンプルだけどどこか個性的、そんな世界観を打ち出したいそうだ」

北条が資料を配りながら説明を続ける。

真一は手元の資料に目を落としつつ、クリエイター起用のページを確認する。

そこに記載されていたイラストレーターの名前が目に飛び込んできた。

三浦さくら(25歳・フリーランスのイラストレーター)
SNSでの発信が人気を集めており、繊細で淡い色彩表現が特徴。

「三浦さくら……あの、SNSでフォロワーが多い人ですよね?」
 
真一は思わず声に出してしまう。

北条がうなずく。

「そう。もしかして知ってるのか?」

「ええ、最近たまたまイラストが目に留まって気になってたんです。やっぱりこの人だったのか」

するとクリエイティブディレクターの男性が口を挟む。

「彼女、業界内でも話題になってるよ。元々デザイン会社にいたらしいけど、辞めてフリーで活動してるって。素材感とか色合いが独特で、商品イメージとも合うんじゃないかってクライアントが興味を示してるんだ」

真一はうなずいた。

自分が感じた“引力”は、業界内でも評価されるだけのものだったのだと確信する。

「じゃあ早速コンタクトを取ってみようか。真一、営業チームとして君が窓口をやってみるか?」

北条からそう提案され、真一の胸は期待で膨らむ。

自分が好きだと思ったイラストレーターの作品を広告キャンペーンに起用する——

広告代理店に勤める人間として、こんなにワクワクすることはない。

「ぜひやらせてください」

そう即答すると、北条は満足げに笑い、打ち合わせはスムーズに進んでいく。

何とか仕事を形にしたい、という思いと同時に、真一の心にはもう一つの好奇心が生まれていた。

三浦さくらというクリエイターは、一体どんな人間なのだろう——と。

 

第三章:再会

一方その日の夕方。ITベンチャー企業「アストラテック」でエンジニアとして働く伊藤 光(いとう・ひかる)は、定時を迎えてもなおパソコン画面とにらめっこを続けていた。

東京生まれ東京育ち。父親は大学教授、母親はピアノ講師。教育熱心な家庭で育った光は、穏やかで控えめな性格でありながら、いざというときには芯の強さを見せる男だ。

「よし、バグの原因はコードレビューで潰せた。あとはユニットテストだな……」

デスクの脇には複数のモニターが置かれ、効率よくタスクを進めるための環境が整えられている。光は合理的思考を好み、時間管理にも厳しい。

だが、今日は想定外のトラブルが発生し、定時を大幅に過ぎても帰れそうになかった。

「光さん、まだやってるんですか? リリースまでまだ余裕あるじゃないですか」

後輩のエンジニアが心配そうに声をかける。光は微笑んで首を振った。

「いや、いま詰めておいた方が後々楽になるから。ごめんね、気にしないで先に帰って」

「了解です。じゃあお先に失礼します!」

周囲の社員がちらほら退社していく中、光は淡々とパソコンに向かった。これが彼の仕事への姿勢であり、家族の期待を裏切らないためにも常に最善を尽くしたいという思いがある。

しかし時折、彼のデスクの引き出しにしまわれた電子ピアノの鍵盤カバーが覗くことがあった。母親から贈られた小さな折りたたみ式のキーボードで、休憩中に無心で弾くことがあるらしい。

恋愛にもロジックや計算で乗り切ろうとしていた時期もあるが、それが通用しないことを学んでからは、心のどこかで「自分の感情」を持て余している。

ふとスマホのバイブが鳴った。

見ると大学時代の友人が開いたグループLINEで、結婚式の二次会の日程確認のメッセージが来ている。

そこには知った顔の名前が何人かあり、その中に「高橋真一」の文字もあった。

「真一……懐かしいな。大学のサークル、結構一緒にやってたっけ」

彼らは大学時代、音楽サークルで共にバンドを組んでいた。真一がボーカルで、光がキーボードを担当していたのだ。

しかし社会人になってからは、それぞれの道が忙しく、連絡を取り合う機会は減っていた。

光はメッセージを読み終えると、そっと携帯を置いて作業に戻ったが、心のどこかが少しだけ温かい。忙しさの中で埋もれていた学生時代の思い出が、ふわりと再来するのを感じた。

 

第四章:遠い存在

翌週の日曜日、真一は友人の結婚式の二次会に出席するため、都内のレストランバーへ足を運んだ。

休日だというのにスーツ姿で歩くのは少々面倒だが、今日は大学時代の仲間が一挙に集まる楽しい機会だ。

エントランスを通ると、既に会場では笑い声やにぎやかな話し声が聞こえる。真一は受付で名前を告げ、パーティー会場に入っていった。

ビュッフェ形式の料理とドリンクが並び、ウェディングドレス姿の新婦とタキシード姿の新郎が中央でにこやかに談笑している。

「おーい、真一! 久しぶり!」

声をかけてきたのは大学時代のサークル仲間。周りには数人の顔があったが、その中に見覚えのある男性が一人立っていた。

「……光?」

「やあ、真一。元気そうだね」

伊藤 光。

気づけばもう何年もまともに話していないが、それでも彼の穏やかそうな笑顔は変わらず、少し懐かしさを覚える。

 真一は笑顔で握手を交わした。

「やっぱり来てたんだな。結構前にLINE見て、来るかなって思ってた」

「うん。忙しかったけど、こういう機会でもないと会えないしね」

光は少し照れたように笑う。二人の会話はぎこちなく途切れがちになるが、それでも旧友との再会は嬉しい。

サークル仲間が集まるテーブルへ行くと、当時の思い出話で盛り上がった。

あの頃、真一はやる気と行動力でバンドをまとめるリーダー的存在。

一方の光は、演奏技術は確かなのに表舞台に立ちたがらず、地味だけど大事なアレンジや音源作りをしていた。

まるで正反対の二人だったが、それがむしろバンドのバランスを取っていたのかもしれない。そう思うと、今こうして再会したのも不思議な縁のように思えた。

「ところで光、今はどんな仕事してるんだ?」

「ITベンチャーでエンジニア。最近リーダー任され始めて、少し大変だけどね」

「そうか……。お前の堅実な性格なら向いてるんじゃないか?」

「はは、どうだろう。でも、悪くはないよ」

お互いの近況をざっと話し合ったあと、光がポツリと切り出す。

「真一こそ、広告代理店で営業って聞いたよ。なんだかすごく忙しそうだね」

「ああ、忙しいけど楽しい。やっぱりアイディアを形にして世の中に出すっていうのは、ワクワクするからさ」

その言葉には実直な熱がこもっていた。光はそれを聞きながら、大学のころから変わらない真一の“前へ進む力”を改めて感じる。自分とは対照的なその性格を、どこか眩しく思う瞬間だった。

やがて二次会も終わりが近づき、新郎新婦のスピーチが始まる。光と真一は並んで立ちながら、耳を傾けた。

「皆さん、本日はありがとうございます。これからも皆で集まれる機会を作って、一緒に思い出を増やしていきたいと思います!」

祝福に包まれる会場。

拍手喝采の中で、ふと真一は自分の胸に沸く、ある感情に気づいた。

“誰か”とこういう場に立ちたいと思う気持ち。

かつて大学時代に付き合っていた彼女との未来図を想像していたときの残像だ。

 隣をちらりと見ると、光がまっすぐ前を見つめている。

何を考えているのか、真一にはわからない。

だけど、お互いそれなりの年月を経て大人になった。それぞれの道を歩んでいるのだ。

 同時に、真一は心の奥で小さく嘆息する。

いま“恋人”と呼べる存在はいない。

忙しいと言いつつも休日はしっかり遊びたいと思っているのに、なかなか「特別な恋愛」を見つけられない自分がいる。

 

第五章:イラストレーターとのコンタクト

翌日…

平日になり、真一のチームはさっそく新規案件の準備に取りかかった。WEB広告で起用を予定しているイラストレーター、三浦さくらに連絡を取る段階である。

真一は三浦さくらのSNSを改めてチェックし、ダイレクトメッセージの受信方法やメールアドレスなどを確認する。

既に会社の公式メールとして連絡を入れてあったが、念のためにSNSでも軽くアプローチをしておいた。

返信は思いのほか早かった。メールを開くと、礼儀正しいがどこか柔らかい文面が綴られている。

はじめまして、三浦さくらと申します。
このたびはWEB広告のお話をいただきありがとうございます。
ぜひお話をお伺いできればと思います。
…(以下略)

真一はその文面から、人柄の輪郭をうかがう。

繊細だけどきちんとコミュニケーションが取れそうな人だ。早速日程を調整して、都内のカフェで打ち合わせのアポイントをとった。

それから数日後の午後、真一は打ち合わせ場所として提案した青山のカフェへ向かう。カフェの一角には大きな窓から光が注ぎ、木のテーブルがナチュラルな雰囲気を醸し出している。

到着時刻より少し早めに店に入り、先に席を確保して待っていると、扉がそっと開いて一人の女性が入ってきた。

スラリとしたシルエットに、やわらかな表情。

ファッションは派手ではないが、自分の個性を大事にしている雰囲気だ。

きっと彼女が三浦さくら——。

「あの……高橋さん、ですか?」

声は控えめだが透き通るよう。真一が席を立ち、名乗り合う。

「はじめまして、三浦さくらです。今日はよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしく。あの、座ってください」

名刺を交換し、店員にコーヒーを注文してから、お互いの仕事の話に入った。

今回の広告企画の概要や求めるイラストのイメージ、そのスケジュール感。さくらはメモを取りながら熱心に聞いてくれるが、ときおりこちらを見上げて静かに微笑む。

その笑顔が、真一の胸をなぜかドキリとさせた。

「ご提案いただいた内容、すごく面白そうです。私も、化粧品とかコスメって、女性の日常や気分を彩るものだと思うので、その“繊細さ”を表現するのが得意かもしれません」

そう言うと、さくらは嬉しそうにペンを走らせる。

真一はそこに、彼女の“自分の世界観”を大切にする姿勢を感じた。

話し方こそ穏やかだが、芯にある創作への情熱を確かに感じる。

「そうですね。今回のクライアントも女性で、敏感肌向けに開発したという経緯を持ってるんです。ただ優しさを訴求するだけでなく、どこか“自分らしくなる”喜びを表現したい。そのあたり、さくらさんの作風ときっとマッチすると思います」

会話はスムーズに進み、時間が経つのも忘れるほど。結局1時間半ほど話し込んで、具体的な方向性のイメージを共有する。

最後に真一が「じゃあ、また別途スケジュールや制作費用の詳細を詰めさせてもらいますね」と切り出すと、さくらは笑顔でうなずいた。

「はい、楽しみにしています。……あの、私もSNSにイラストを載せるだけじゃなくて、もう少し大きな規模のお仕事をしたいと思っていたので、本当にありがたいです」

彼女のその言葉に、真一はどこか心が震えた。“やりたいことを形にする”という自分の信条と重なったからだ。

店を出る頃には夕暮れが近づき、外はオレンジ色の光に染まり始めている。別れ際、真一は軽く頭を下げると、口を開く。

「今日はお忙しい中ありがとうございました。……何かあれば、遠慮なく連絡くださいね。プライベートでも……じゃなくて、まぁ仕事のことでも何でも」

自分でも変な言い回しになってしまい、慌てて言い直そうとすると、さくらはクスッと笑って首を振った。

「こちらこそ、よろしくお願いしますね。では、失礼します」

真一は、彼女が通りの向こうへ消えていく後ろ姿を見つめながら、ふと心に温かいものが生まれるのを感じた。

 

第六章:さくらの日常

一方、さくらは自宅へ帰ると、ほっと息をついてソファに身を沈めた。

今日は充実した打ち合わせだったが、やはり初対面の相手とは疲れもある。

でも、高橋真一という男性はどこか不思議な人だった。

最初は「営業マン」という肩書きから、もっとガツガツしたイメージを持っていたが、実際にはロマンチックで柔らかい雰囲気も漂わせている。

最初の挨拶こそビジネスライクに感じたが、会話を重ねるうちにその内面を少しずつ垣間見た。

さくらはパソコンを立ち上げ、さっそく今日の打ち合わせのまとめと、案件でイメージするイラストのラフスケッチを描き始める。

こうして考えやイメージを“目に見える”形に落とし込む作業が、さくらにとっては一番しっくり来るのだ。

「……あのコスメブランド、どんな世界観にしたらいいかな……」

線を引いて色を置く。

まだラフなのでざっくりとしたタッチだが、頭の中にあるビジョンを一つずつ形にしていく喜びを感じる。

同時に、高橋真一とのやり取りで受け取った感覚——「自分らしくなる喜び」をどう表現しようかと思案する。

実はさくらは、かつての恋愛で「自分を相手に合わせすぎて」苦しくなった経験がある。

仕事優先の彼氏に自分の想いを伝えられず、合わせるうちにどこまでが自分の考えなのか分からなくなっていた。

だからこそ今、創作活動を通じて自分自身を肯定したいと思っている。

そう考えると、今回の広告企画のテーマはまさに自分の内面とシンクロする。

慣れない広告案件で不安もあるが、それ以上に前向きな気持ちが勝っていた。

「フリーになって良かったかも……」

ぼそりと自分に言い聞かせるように呟く。

あのまま会社に残っていたら、今のように自由に作品を作ることはできなかっただろう。

『今の自分を大切にしたい』——

そう思いながら、さらにペンを走らせる。

 

第七章:光のメッセージ

一方その夜、光は自宅でスマホのSNSをなんとなく眺めていた。仕事は一段落したものの、気持ちをリフレッシュしようとピアノを弾き終えたところだった。

タイムラインに流れてくる色々な情報の中で、ふと目に留まったのは「三浦さくら」というイラストレーターの投稿だ。

少し前からフォローしていたのだが、その繊細なタッチや色使いに惹かれ、ずっと眺めている。

新作のイラストには柔らかいグラデーションで描かれた街の風景と、人混みの中で少し寂しそうに立ち尽くす女性がいる。

説明文にはこうある。

「都会の喧騒の中でも、自分を見失わずに生きたいと思うのです。」

光はその言葉に共感する。

自分も時々、混雑した満員電車に乗りながら、何が本当の自分なのか考えてしまうことがある。

合理的に生きようとしても、心のどこかにポッカリと空いた穴のようなものを感じる瞬間があった。

 ——そんな風にぼんやり考え込んでいると、突然SNSの通知が入った。

「三浦さくら」本人からのリプライだった。

実は少し前、光が彼女のイラストについて感想をコメントしたことがあり、それに対して丁寧に返信が来たのだ。

返信ありがとうございます。私もそのイラストを描いたとき、似たような気持ちでした。いつでも自分を見失わないように、表現していたいですね。

 特別なやり取りではないが、光はなぜか胸が温かくなる。

SNS上の軽い交流とはいえ、自分の気持ちに共鳴してくれる誰かがいるというのは、悪い気がしないものだ。

無性に彼女の過去作品をもっと見たくなり、光はスクロールを続ける。

やがて気づくと、夜はかなり更けていた。明日は仕事があるし、早めに休まなければ。

そう思いつつも、光の頭の片隅には、三浦さくらという人物の存在が深く刻まれつつあった。

 

第八章:揺れ始める三人

それから数週間が過ぎ、真一の担当するコスメブランドのWEB広告企画は順調に進んだ。

さくらの描き下ろしイラストも好評で、クライアントからは「ぜひこのまま進めたい」とポジティブな反応を得ている。

真一はというと、休日にさくらへ進捗報告を兼ねて連絡を取り合うことも増え、仕事の話からプライベートな話題にまで話が及ぶようになっていた。

自分の大学時代のことや、故郷の話などをしていると、さくらも「そんなところがあるんですね」と興味深そうに聞いてくれる。

 さくら自身は、打ち合わせ場所に選ぶカフェでイラストを仕上げることも多いらしく、真一が仕事終わりに

「近くにいるから寄ってもいい?」

と声をかけると、

「ちょうど息抜きが欲しかったところです」

と快く応じてくれたりもする。

そんな柔らかなやり取りの中で、二人の距離は少しずつ近づいていた。

しかし、一方の光にも変化が起きていた。

さくらのSNSを見ているうちに、ある日意を決してメッセージを送ったのだ。

フリーランスのクリエイターを探す自社の案件で、デザイン面でコラボの可能性があるかもしれない——と。

実際、光の勤めるITベンチャー「アストラテック」は、自社サービスのUIリニューアルを計画していた。

ビジュアルのトーンを一新するにあたり、外部のイラストレーターやデザイナーと共同で作業したいという案が出ていたのだ。

光は合理的に考えれば、業界のデザイン事務所に依頼するほうがスピーディかもしれないと思いつつも、どこかで「彼女の感性を取り入れたい」という純粋な思いが勝っていた。

すると、さくらから返信が来た。

面白そうなお話ですね。詳しくお聞きしたいです。

光はほっと安堵すると同時に、少し胸が高まる。

ビジネスとしての交渉でありながら、どこか「もっと彼女と話がしたい」という気持ちもあった。

こうして、真一を通じてさくらを知ったわけでもないし、彼女からすればまったく別の“案件”としての接点。

しかし、三人はすでに見えない糸で繋がり始めているのだ。

 

第九章:二つのオファー

ある土曜日の夕方、さくらはお気に入りのカフェで作業をしていた。

窓辺の席に座り、ノートパソコンとタブレットを広げ、イヤホンからは心地よい音楽が流れている。

途中、小腹が空いてベーグルを頬張りながら、SNSの通知をちらりと確認すると、光からメッセージが届いていた。

次回の打ち合わせの候補日程と、簡単なスケジュール案が添付されている。

さらに

「もしよかったら、お茶をしながら詳しく話し合えたら」

と一文があった。

ビジネスライクなやり取りの中に、わずかに温かみを感じさせる言葉だった。

一方、真一とのやり取りでは、来週に最終プレゼンのリハーサルがあるから、一度直接会ってデザイン案をすり合わせたいという連絡が来ている。

おそらく夜に時間を取って、プレゼン資料の作り込みを一緒にやることになるだろう。

さくらはタスク管理アプリを開き、スケジュールを眺める。

フリーランスとしての仕事が順調になりつつある一方、人と会う機会が急増し、忙しさを少し感じ始めていた。

だが不思議と苦にはならない。むしろ自分を求めてくれる人がいる、という喜びがどこかにあるからだ。

「……でも、なんだか混乱してるな」

さくらは心の内を整理するように、スケッチブックを取り出してペンを走らせる。

そこには街の中で立ち止まっている人々が描かれ、遠くには大きな建造物がそびえ立つ。

まるで“選択肢が多すぎる”都会のイメージ。

その人々の顔は、どこか戸惑っているように映る。

自分の気持ちに気づかないふりをしていたが、実際問題として、さくらは真一と会うたびに心が動くのを感じていた。

彼が見せるロマンチックな言葉や、前へ進むエネルギー。

ときには無茶をしながらも努力を惜しまない姿勢。

それらはさくらにとって「自分にない部分」であり、魅力的に映る。

ところが光とのやり取りも、また別の安心感がある。

まだ直接会っていないものの、SNS上の言葉の端々から感じる優しさ。

彼はきっと穏やかな人で、しかも合理的に物事を進める。

さくらにとって、それは安心できるし、不安定になりがちな自分のペースを尊重してくれそうだとも思う。

 ——過去の恋愛では相手に合わせすぎて失敗した。

だからもう、そういう付き合い方はしたくない。

それでも、このまま行くと同じ轍を踏むのではないか、と胸のどこかがざわつく。

「まずは、しっかり仕事をやりきること。それが大事……」

ひとりごちて、さくらはペンを置いた。自分の気持ちはまたじっくりと整理するしかない、と考えながら。

 

第十章:始まりの予感

そして迎えたWEB広告の最終プレゼン当日。

真一はクライアントのオフィスに向かい、さくらとともに準備を進める。

さくらは自作のイラストパネルとデジタルデータを用意して、真一はプレゼンのスライドと進行役を務めることになっていた。

提案はスムーズに進み、クライアントサイドからの質問にも真一が的確に答える。

さくらは少し緊張しながらも、自分の描いたイラストのコンセプトを丁寧に説明。

最終的にクライアントからは

「ぜひこのビジュアルで進めましょう!」

という力強い了承を得ることができた。

プレゼン後、二人はほっと胸をなで下ろしながら、近くのカフェに入ってささやかな打ち上げをする。

小さなケーキを注文し、コーヒーで乾杯した。

「さくらさん、お疲れさま。これで正式に案件決定だね。おめでとう!」

「いえいえ、お疲れさまです。高橋さんがいてくれたおかげで、私も安心して話せました」

さくらはそう言うと、少し恥ずかしそうにケーキをひと口頬張る。

真一はその仕草を見つめながら、心がふんわりと温かくなるのを感じる。

今までにもクリエイターと仕事をしたことはあるが、こんなに“仕事の先”を意識してしまうことは初めてだ。

さくらにとっても、この成功体験は大きかった。

自分の世界観がビジネスの場でも認められたという自信がつき、同時に真一という存在がさらに大きく感じられる。

二人は打ち上げというには地味かもしれない、けれど穏やかで幸せな時間を過ごし、カフェを出た頃にはすっかり夜になっていた。

ビルのネオンが広がる通りを歩きながら、真一は意を決したように声をかける。

「あのさ、良かったら、このあともう少し散歩しない? 夜の街を歩くの、わりと好きなんだ」

「散歩……ですか?」

「うん。もし疲れてないなら、だけど。どう?」

 さくらは一瞬迷ったが、頷く。

「……じゃあ、ちょっとだけ」

そうして二人はコーヒーカップを片手に、人気の少ない路地をゆっくりと歩いた。

夜の風が心地よく、街灯の光が淡く二人を照らす。

ときおり話す言葉は仕事のこと、プライベートのこと、とりとめのないこと。

それだけで十分に満たされているような、そんな空気感があった。

しかし、その一方でさくらの頭の片隅には、「光」とのやり取りもちらついている。

近々会ってデザインの話をする予定があるが、それは単なる仕事以上の何かに発展するのだろうか。

真一もまた、さくらに惹かれつつも、先日再会した光のことを思い出していた。

あいつ、元気にやってるかな……。いや、何を考えているんだろう、自分は。

夜の路地を抜け、大きな通りに出たところで、さくらが

「そろそろ帰りますね」

と小さく微笑む。真一はそれに頷いたが、別れ際にもう一度だけ頭を下げて言う。

「今日はありがとう。それと……これからも、よろしく。俺、さくらさんともっと一緒に仕事したいし、もっといろんなこと、知りたい」

さくらは一瞬戸惑いの表情を浮かべるが、すぐに柔らかい笑顔で返す。

「……こちらこそ、よろしくお願いしますね。じゃあ、おやすみなさい」

言葉少なに別れたものの、それぞれの胸には「何かが始まる」という予感が確かに芽生えていた。

まだそれが恋という名に変わるかはわからない。

しかし、運命の糸は静かに絡まり合い、一つの形になろうとしている。

このとき、三人の物語は始まりにすぎなかった。光が見つめる繊細な世界、真一が求めるロマンチックな関係、さくらが大切にしたい“自分らしさ”。それらがどのように交差していくのか——その行方はまだ誰も知らない。


〜第二部に続く〜


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