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甲斐源氏と縁の深い北杜で

甲斐駒ヶ岳は北杜に住んでいればどこからでも見えますね。ほんとにカッコイイ山です。甲斐駒ヶ岳の駒とは馬のことを指します。北杜も馬との関係が深かったので調べてみると楽しいですよ〜。

さて、山梨といえば戦国の英雄、武田信玄が有名。
ではその武田信玄(晴信)のご先祖さんは元々甲斐の住人だったのか。それは否。平安時代の末に常陸国(現在の茨城)から流罪として流されてきた源義清・清光親子から始まる。
彼らは常陸国の武田(現在の常陸大宮市)というところに本拠地があったことから武田を名乗る。そして常陸の有力者と対立した結果甲斐に流罪されることになった。
時に1131年。世の中は平安時代末期で武士が世の中に台頭しようとしていた頃だ。
現在の市川三郷町のある市川荘(荘園)を経て、清光は逸見荘(現在の北杜市逸見)に移り住み、逸見清光と名乗ることに。
逸見一帯は縄文の頃から栄えていた場所で、当時も逸見牧と呼ばれる馬の産地だった。当時馬は朝廷において神事に使われていて、特に甲斐の馬は「甲斐の黒駒」として名を馳せており重宝されていた。
土地柄も良く勢力拡大の地盤としてはうってつけだったと言えそうだ。
清光は多くの子に恵まれ、彼らは甲斐の各地に勢力を築いていく。次男の武田信義は甲斐源氏の嫡流としてその血は脈々と武田信玄へと繋がっていく。

中学生の頃にひょんなことがきっかけで歴史が好きになった自分にとって山梨は地元の東京府中から近く、武田氏が好きになるのは必然だったような気がします。いつか山梨に住みたいとか中学生の頃に思っていたことがありましたが、まさかクライミングを通して山梨に住むことになるとは思いもよらず、面白いものです。
しかも北杜市に住むことになるのもなんだか運命的です。

北杜市に移り住み、この地の歴史を調べているうちに武田氏と多くの接点があったことは驚きでした。

武田氏の観点から見ると、その後信義の子の信光という人が石和に移り住み逸見には兄の逸見光長という人が残ります。しかし甲斐国の中心は逸見から石和に移っていくことに。そして信玄とその父信虎の頃に甲府が開府され現代に至っていくのです。

縄文時代に日本で最も栄えた場所の一つとされた北杜。多くの遺跡から土器が発見され細かく見れば、縄文にも前と後があって時代によって形が違う。それはどんな意味があるのか。この辺はまだ勉強しだしたばかりなので詳しくは書けません。

ちなみに北杜という地名は最近出来たものです。古くは巨摩郡とか逸見筋とか呼ばれていました。でも「北杜」という地名は素晴らしく深いと思います。

最近思うことがあって、それは自分のアイデンティティって何だってことです。アイデンティティという言葉自体ぶっちゃけよくわからんのですが、まぁググってみてください。

自分の生まれた土地のこと、移り住んだところはどんな所で誰がいて何がおきて、どうなっていったのか。
それを知ろうとする事がアイデンティティの一つなのではないかと最近思うのです。

歴史に興味を持て!というのではなくて、自分の育ったところに思いを抱いて欲しいって感じです。
ここは田舎だな。何にもないな。つまらん所だ。そんなことは思わないでほしい。

これからがある北杜の子にはそういて欲しいです。でもロクボクに来る子供たちはみんな個があって良い感じを受けておりますが。。

最初に書いた武田氏のことは歴史の大きな流れの中においては小さなことです。でもそれは次へと繋がっていく。いろいろと繋がっていくから面白いです。

果たして自分は今後どうなっていくんでしょうか。どこへ行くのでしょうかね。

クライミングと歴史散策はなかなか両立が難しい。今は休みの日が晴れていればクライミングに行ってしまうから。
悩ましい悩みです。でも近くにこんなにも人生を豊かにしてくれる課題があるなんて嬉しいですね。

谷戸城跡 こんなにも立派に残ってるなんて感動
逸見神社


我が家からの雄大な展望

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