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『ジャニーズ問題と一億総芸能人化』大人になれない「タレント」たちと、売春婦化する私たち

むかし、子供ながらに香取慎吾のコメントにギョッとしたことがある。確かSMAP時代の彼が27時間テレビかなにかに出たときに、「解散はあるのか?」と聞かれたときの回答だ。

「大人たちに強制されない限り解散しません」

たしかそんな感じのコメントだったはずだ。私たちが知る通りその後SMAPは「大人たち」の手によって解散させられて、メンバーは各々の道を進んだわけだが、筆者は決して後の時代の崩壊を幻視してギョッとしたのではない。当時子どもだった筆者は、「いやお前も大人だろ」という至極素朴な疑問と感想を抱いたのだった。上の香取のコメントは、「大人たち」を自分たちに何か干渉してくる客体として置くことで、自分たちを「大人」の世界から切断している。では、「大人」ではない香取は一体何なのだろうか?「子ども」なのか?こうした、自分を「大人」から切り離したコメントは彼や(旧)ジャニーズアイドルのみのものではなく、芸能界にいくらでも転がっている。スタッフやマネージャー、制作関係者などを「大人」と呼ぶような類いのものだ。じゃああなた達は?大人ではないの?

彼らの言う「大人」を観察していると、ある種の責任主体という意味合いで使っているのだと分かってきた。制作の責任を取るもの、我々をマネジメントしてくれる責任を持つもの、カネとコネのケツを持ってくれるもの……。「大人」から切り離されたタレントたちは、少なくとも彼ら自身の認識の上では責任を取り得ない。彼らが取りうる責任は、仕込まれた技術を披露する、あるいはその質を上げるということだけだ。ここだけみれば医者や弁護士のような高度専門職と変わらないような気もしてくるが、医者や弁護士は自分を「大人」ではないと定義したりはしない。では、こうした高度専門職と「タレント」は何が違うのだろうか?

おそらくそれは芸能というものの本質や、歴史的な起源によるものなのだろう。よく言われる大手プロダクションの支配構造も関係しているのかもしれない。先日ビートたけしが「我々は猿回しの猿のようなもの」と発言していたが、芸能人は「河原乞食」というかつての蔑称に象徴されるように、「社会人」的な意味での「大人」には決してなり得ない。彼らがハレの存在であるとすれば、一般人がケであり、交わることがない、とも言える。

思えば私たち一般人は芸能人基準で「大人」と見なされるが、その基準は一体どのように保証されるのだろうか?いわゆる勤め人や社員として働くものが芸能人より責任を負わされているとは思えない。むしろ逆だろう。勤め人は自分のプライベート(不貞行為や多少の法律違反)に責任を負わされる必要はなく、そもそも自分の仕事で負わされる責任すら最終的には上司や社長、株主に帰結する。プロレタリアートは生産手段を持たないがゆえに資本主義的な意味での責任主体となり得ない。自らの芸という生産手段を持つ芸能人のほうがよほどブルジョワ的(原義的な意味で)だろう。どう考えても香取慎吾の方がスマスマやいいとものスタッフより人格者(として振る舞うよう強制されていて)で、たくさんのカネも背負わされているのに、香取自身の中で彼は非-大人なのだ。

ここで提起されるべき問題は「なぜ彼らは大人になれないのか?」ではなく、先ほど答えを出した「なぜ彼らは大人と"見做され"ないのか?(アウトローな存在と見做されているから)」でもないのが分かるだろう。「彼らの『大人』としてのあり方がどのような形で大衆から簒奪されているのか?」という問題だ。筆者の立場をここで明示しておくと、理由は後述するが芸能人が「河原乞食」と見なされるような社会に対してむしろ賛同派である。したがって筆者はこの構造を特段問題と考えていないが、備忘録的に記述したいと考える。

日本芸能は落語や歌舞伎からスタートした。厳密には能や猿楽、舞や狂言などがあるが、ここでは大衆を動員した高度で俗悪な文化を対象とする。これらは、特に歌舞伎などは演者が性的対象となることで人気を集めた。そもそも舞のような文化は売春の高度な形からスタートしたものであり、芸能はそもそもが売春の相似形である。ジャニーズ問題や枕営業などに見られるように、芸能と売春的行為が切っても切り離せないのはここに淵源がある。

こうした歴史的経緯から芸能人のような職業は「伝統的」に見下されるようになった。むかしの芸能人は今と違い、多少の不倫や薬物使用はおおらかに許されていたものだが、これも「河原乞食のやることだから仕方ない」という当時の価値観の反映だったことは容易に推測つく。ジャニーズ問題が今に至るまで報道されなかったのも、彼らのメディアとの癒着や総務省や中曽根との癒着だけが原因ではない。お稚児文化華やかりし高野山の高僧の息子でありながら日系米人(CIAのスパイ)でもあるというマージナルマンが運営する事務所に、これまた一般社会から外れてでも成功への道を駆け上がろうとする子供達が集い、「何か」が行われている。実話だけれどもどこか現実感のなく寓話的で、それであるが故に誰も指摘できないのだ。芸能界というハレの場には、そういったこともあるだろう?ジャニーズ問題はそうした空気の中で生まれた問題であり、梨園問題も、宝塚問題も、香取慎吾が自分を非-大人と置くのも、そうした所から生まれたものだ。

こうした、社会の汚さの写像を芸能界という蠱毒に全て押しこんで目を逸らすという構造は、筆者は解体に向かっていると考える。ジャニーズ問題や宝塚問題が「性的強要」や「過労」という文脈で報道されている現状はこの象徴だろう。ただの不倫で世論から集中砲火を食らい何年も復帰できないのも、その一例だ。芸能界は少しずつではあるが浄化されており、反社会勢力との繋がりも今や断たれていると言って良い。ではこれは単なる芸能界の浄化を意味しているのだろうか?

芸能界がそもそもなぜこれほど巨大化したかと言えば資本主義によるものだ。テレビや映画以前の芸能人がパトロン探しに奔走させられていたことを考えると別世界のようだ。これは「スーパースター効果」という言葉で説明される。大谷は年俸が100億円近く貰えるんじゃないかと噂になっているが、打率が大谷とたったの一割しか変わらず投げる球の速さもそう変わらないであろうエンゼルスの半一軍選手の年俸は、おそらく1000万円もいかない訳だ。トップに漸近すればするほど富の集積効果が働き大金持ちになるという資本主義のシステムによって、「河原乞食」たちは大金持ちとなった。これは現在さらに顕著となっており、Spotifyなどでは一部のトップアーティスト以外はマトモに稼げない構造になっている。テレビに出るような芸能人になれば大金持ちになれて、モテモテになれるという欲望から私たちは逃れることができない。

このようにしてジェームズディーンとビートルズ以降芸能界が資本主義構造にビルトインされると、私たちは芸能人に憧れるようになった。今まで性的対象として見なされながらも見下され続けていた芸能人に対して「こうなりたい!」という欲望が発生したのだ。「ジーンズ」や「マッシュ」は上記の彼らがしていたことで流行ったファッションだ。日本も程なくして後を追い、石原裕次郎などが喝采を浴びるようになった。ここでハレとケの境界の解体が始まる。

ここまでは今まで(2010年頃まで)のリアルであった。問題はここからである。2010年以降新たなリアルが立ちのぼって来たのだ。それはSNSの登場、もっと言えばSNSでマネタイズが可能となったYouTuber登場以降に現れた。SNSの登場は『インフルエンサー』を生み出し、フォロワーの多寡がそのままある種の人間の価値を表すようになったのだ。今や人間を50人集めればうち一人は何らかのインフルエンサーであると言っても過言では無い。芸能人と我々の境界線はもはやほとんど無いと言っていいほどに融解し、すなわち「商品」として取り扱われる領域が芸能人のみから一般人にまで拡大したのだ。芸能界の浄化と反比例するかのように、我々の芸能人化が進んだのだ。

資本主義の領域が我々にまで迫って来て、我々は芸能人となることを、あるいは売春をすることを強制され始めた。2010年代以降metoo運動が盛り上がり「性的客体化」という言葉が人口に膾炙し始めたのは偶然では無い。何度も言うようだが、芸能界の浄化とは社会の芸能界化であり、我々はハレとケが混在する新たなリアルを生き始めている。今の女子高生はカジュアルに自分の動画をtiktokにあげ手っ取り早い承認を得るようになった(そうした若者の中からインフルエンサーが現れている)。男性もこの波からは逃れられない。不細工な男性は「チー牛」と呼称され、存在しているだけで写真を撮られてSNSに投稿されるような存在となり果てた。不細工な男女もある種の逆売春婦になる可能性を背負わされている。そしてその投稿がまたSNSによる資本主義支配を強化するのだ。無限の客体化/芸能人化/売春婦化から私たちは逃れられない。

syamu氏は容姿に優れず知的グレーである『身の程』を弁えず表現者を志したが故に、逆売春婦として永遠にネットのおもちゃとなった

私たちはだんだん見られることを意識するようになり、社会はより万人の万人に対する(視線)闘争とでも言うべきものとなった。「大人」という文化は解体されたのか、それとも芸能界の論理がビルトインされ拡大強化されたのかはまだ分からない。しかし、私たちが芸能界という「蠱毒」に詰められた悪徳が拡散する中で「大人」そのものも変質する只中にいることは否定できない。保守的な筆者はこれに同意するものではないが、一度動き出した流れを止めることは不可能だ。また、こうした構造の解体は、芸能界における性的搾取の是正などプラスの影響ももたらしている。私たちは、新しいリアルに対応した新しい生き方を模索しなければならない。

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