「バーチャルな存在」が在り続けるためのコストを現実的に考えてみる

この半年、私はVTuberの考察をきっかけとして、「バーチャルな存在」という人間の在り方についてnoteを書き続けてきました。
そして「こう在りたいという自分の理想の姿」を自らの手でデザインできるバーチャル世界は、今まで私たちが望みえなかったほどの自由度で「なりたい自分になり、望むままのことを成し、充足感を得ていくこと」、すなわち自己実現を可能にしてくれるだろう、と考えるに至りました。

そうした私の考えは、嬉しいことに多くの人から共感を集めました。
一方で耳痛い批判や指摘も頂くのですが、その中で私が「これは」と唸らされた指摘が「バーチャルな存在となるコスト」についての指摘です。

元より未来志向の抽象論ばかり並べている私ではありますが、一方で実は現実的な視点というのも忘れずに心に秘めて持っているつもりです。
だからこそ、いくらバーチャルになることの可能性が魅力的でも、そのコストの高さは中々手が届くものではない、という指摘には唸らざるをえませんでした。

だってそうでしょう? 商品の魅力的なところをあれやこれやと紹介して「私も欲しい!」と思わせておきながら、最後の最後になって「ただしお値段は100万円です!」と言われてしまっては、すっかり興冷めしてしまいます。とんだ意地悪です。
だからこそ、このところ私は「コスト」という現実的な視点から、自分の提案を見つめ直さねば、と思っていました。


そういうわけで、少し現実的な方向に寄せた、「バーチャルな存在としての自己実現」と「そのコスト」というテーマについて掘り下げていってみようと思う次第です。



◆そもそも「バーチャルな存在」とはなにか?

今回は現実的で具体的なコストの話ということで、話が抽象的にならないように気を配っていきます。その分、話がくどくなるのはご容赦ください。

そも、「バーチャルな存在」とは具体的にどういうものか?
度々言及しているにもかかわらず、私は明確にこれを定義したことはなかったのですが、改めて言語化するのであれば「現実世界の自分とは違う名前や姿で、別の存在として活動するもの」というのが私の定義です。バーチャルという言葉に照らして、「実際には存在しないが、実質的に存在しているもの」と言ってもいいでしょう。

そのため広義には、例えばペンネームを使って創作活動をしている人や、仮名を名乗って昼と夜で「別の自分」を演じているような酔狂な人間をも含みます。
ですが、今回対象にするのはもう少し狭い範囲、そうした中でもインターネットを活動の場としている存在のことです。

その代表例がVTuberであり、学術たんなどを始めとしたバーチャル・ツイッタラーバーチャル・インスタグラマー、あるいはVRChatの住人たちなどです。
また極論、たとえアイコン1枚と己の名前だけしか持たないTwitterアカウントであっても、その人が現実の自分とは違う存在として振る舞う限り、それもまたバーチャルな存在であると私は考えています。
それは、その人が持つ「現実の自分とは違う、新しい自分になりたい」という意思そのものが重要であり、尊重されるべきであると思うからです。

(このことは下記のnoteで書いた、「意思なき存在はバーチャル世界では簡単に失われてしまう」ということの裏返しでもあります)


◆「バーチャルな体」を持つためのコスト

さて、ここで重要なのは、とかく「現実の自分とは別の存在である」という意思、そして行動さえあれば、実はTwitterアカウント1つを開設することですら十分「バーチャルな存在」であるに足るということです。
実際、VTuberのように動く「バーチャルの体」がなくとも、名前と顔(アイコン)を持ち、話し言葉をかわす存在を、私たちは「人間」と、すなわち「バーチャルな存在」と認識します。それはbotや人工無能にすら我々が「人間味」を感じることからもお分かりいただけるでしょう。

もちろん、VTuberのようにバーチャルな体、こと表情や身振り手振りなど非言語的コミュニケーションをも伴い、声をもって話しかけてくる存在であれば、その「人間味」、「バーチャルな存在としての存在感」はより明瞭になるでしょう。活動表現の幅も大いに広がりますし、本人の「バーチャルな存在」としてのセルフ・イメージもより強固になることでしょう。
あるいは3Dアバターを身にまとってVR世界に没入すれば、「ああ、私は今、現実の自分とは別の自分なのだ」という感覚は殊の外深くなります。

しかしそれは本質ではなく、たとえ媒体がTwitter上のテキスト・コミュニケーションのみであっても、そこに「現実世界の自分とは別の自分」を表現し、活動する限り、それは紛れもなく「バーチャルな存在」たりえるのではないかと、私は思うのです。
もちろんInstagramやblog、あるいはDiscordといったTwitter以外のどのようなプラットフォームであろうと同じです。ソーシャルな場において、仮想の自身を表現し続けることこそが重要なのですから。


これが一つ、冒頭のニッソちゃんの問いに対する今の私の回答でもあります。
すなわち、「現実世界の自分とは別の自分」になろうとする、表現しようとする意思があり、活動があれば、「バーチャルな体」を生み出すコストは必ずしも必要ではない
他ならぬ「学術たん」という、すでに10年以上の歴史を持つ前例が、それを証明していると私は思うのです。



◆「バーチャルな存在」が在り続けるためのコスト

前項では、実は「バーチャルな存在」には「別の自分」たろうとする意思、そしてその表現たる活動こそが本質であり、実は「体を得る」というコストのかかる作業は必須ではないと結論しました。

では、「バーチャルな存在」として在ることは実はかなり簡単なことなのでしょうか?
しかし、実はコストという視点から考えるにあたり、もっとも厳しい条件がいまだ俎上にあげられていないのです。

それは、存在し続けるコストです。
より具体的に言えば、「バーチャルな存在」としての活動、自己表現を続けていくモチベーションです。

このコストを払い続けるというのは中々に大変なことで、事実モチベーションの山谷というのはVTuberの間でも割合よく聞かれる話です。「急に有り体な話になったな」と思った方もいらっしゃるでしょう。
しかし、やはりこれは「バーチャルな存在」にとって本質的で、もっとも重要な問題だと思います。


…さて、ところで皆さんはお気づきでしょうか。

私は先立って「バーチャルな存在」の要件を、その意思と「活動」にあると表現しました。また先程も

「バーチャルな存在」としての活動、自己表現を続けていくモチベーション

と書きました。
裏を返せば、「活動」なくして「バーチャルな存在」は「バーチャルな存在」たりえなくなってしまうと言っているに等しいいです。

これは先に上げた拙稿での、「何者にもなれない存在であっても、そこに在り続けて欲しい」という私の願いと大きく乖離しているように思えます。

何者にもなれないというのは辛いことです。VTuberにとって、無関心こそがもっとも辛いことであるのは、私とてよく知っています。
けれども、現実世界の人間が、たとえ今は何者でもなくとも、ともかく生きていき、その先にこそ「何者かになれる可能性」を生むような意思を持ち得るように。
バーチャルな存在もまた、在り続けてこそ、そうした「自らが望むバーチャルな在り方」にたどり着ける可能性が生まれるのです。


ただ、早々に手のひらを返すようではありますが、私は本心から、活動などせずとも「バーチャルな存在」は「バーチャルな存在」として在り続けていいし、そうあって欲しいと願っています。
けれども、これを主観的な理想論とするなら、今回の「活動なくしてバーチャルな存在はそれたりえない」という言及は、客観的な現実論です。矛盾する二つの考えを、私の一つの口から語らねばならないことをお許しください。

先の引用にも挙げたように、現実世界であれば、「何者か」でなくとも、とにかく生きていくことができる、あるいはそうせざるをえません。そしてその中では、必ず人との関わりが必要になります。社会の中でしか人は生きていけないのですから。

しかし、バーチャルな存在はどうでしょうか。
バーチャルな存在の活動の場は、現実的にSNSとなります。例えばTwitterですが、その場合アカウントを作ってしまえば、あとは維持するために何もする必要はありません
そしてSNSとはその情報量の多さ、そして関係性の薄さゆえ、現実よりも遥かに容易に「他人」が忘却されてしまう残酷な場でもあります。

生存のために多少なりとも人との関わりを持たざるを得ない現実世界に対して、「生存」に何の手間も必要ない=人との関わりが必要ではないバーチャル世界では、SNSの残酷な特性もあって、「何もしない」人は周囲の人々から早々に忘れ去られてしまいます

実質性のみを持ち、実体を持たない虚像であるバーチャルな存在にとって、観測者の不在、つまり忘却とは命取りです
ゆえに現実論として、「バーチャルな存在」が在り続けるには「何らかの活動を続ける」ことが必要であり、そのために活動を続け、そのモチベーションを維持するコストを払い続けざるを得ないという結論に至ります。


◆「バーチャルな存在」が長く在り続けるのに必要なもの

「バーチャルな存在」が在り続けるには、活動のモチベーションというコストを払い続けざるを得ない忘れられるという事はバーチャルな存在にとって致命的であるが故に、というのが前項の結論でした。

けれども、人一人が持ちうるモチベーションは限られています。体調や気分、環境によっても大きく上下します。誰にだって谷はあります。それを圧して、モチベーションを維持し続ける難しさは、多くの人が知っていることでしょう。
たしかに、モチベーションというコストを外部から供給して貰う方法もあります。誰かからの好意的な反応、応援といったものがまさにそれです。しかしそれすらも、誰もが受けられる恩恵ではありません

では、私たちバーチャルな存在は、なにかの拍子にモチベーションを失って活動を停止してしまったが最後、忘れ去られ、消え去ってしまう儚い存在なのでしょうか?


そうではない、と私は思います。

ここで、本稿を書くにあたって刺激を受けたHowaさんの記事を引用しましょう。

VTuberでよく引き合いに出るのが承認欲求と言う言葉。他者に認められたいと言う欲求だ。承認欲求よりも高い次元に自分の夢を叶えたいなどの自己実現欲求があるそうだ。
(中略)
だがちやほやされたい「承認欲求」も夢を叶えたい「自己実現欲求」も、需要があるのはVTuber側だと言う事だ。
VTuberを支えてくれるサポーターはそれに付き合ってくれる人達なのだから、彼らがサービス提供者と言う事になる。
(中略)
自分には需要を満たせるだけの力もない。でも自分の欲求を満たしたい。ではどうすれば良いのか。
簡単な事である。お金を払えば良いのである。

…ちなみにHowaさんは実際に、ご自身が童話を書くというモチベーションを作るために、お金を払ってサポーターとなる人を募集されている方です。なのでこれは単なる口先の極論でない、有言実行の言説です。
そして、ここには一つ重要な示唆が含まれています。


実のところ、我々バーチャルな存在にとって本当に必要なものは「活動」ではありません。その活動によって得られる「反応」であり、誰かに覚えていてもらえることそのものです。Howaさんの言葉を借りれば「サポーター」がいることです。
そのように支えてくれる人がいればこそ、私たちバーチャルな存在は在り続けることができ、また「自己実現」というゴールに向かっていくことができます。自分のことを覚えていてくれて、反応をくれる人がいることこそが重要なのです。自己実現とは、自らが望むままに何事かを世に成せたという満足感は、それを感じさせてくれる他人の反応あってのことなのですから。

モチベーションが尽きて活動ができない時、ともすれば忘れ去られてしまいかねない時にこそ、それでもなおそんな風に自分を支えてくれる暖かな人たちがいてくれること。そのなんと有り難いことか。
そのためにお金を払う、というのも直接的ですが一つの手でしょう。あるいはもっと間接的に、例えば日頃から親切をしたり何かを教えてあげたり、もしくは親しく挨拶を交わしたり、という方法もあるでしょう。

そうした交流の中で関係を築き上げた結果、もしかしたら何事もなくても折に触れてあなたのことを気にかけてくれる、とても有り難い人が現れてくれるかもしれません。
その人は、おそらくあなたが少し疲れて活動ができなくても、あなたのことを忘れたりはせず、むしろ優しい言葉をかけてくれるのではないでしょうか。
私たちは、そうした人のことをなんと呼ぶのでしたか。


おそらくは、友達と呼ぶのだと思います。

…SNSという時の流れが圧倒的に早い世界を活動のフィールドにせざるを得ず、忘却を大敵とし、ゆえにモチベーションの維持がその生命線でもあるバーチャルな存在にとって、もっとも大切にすべきは、ゆえに「友達」なのだろう、と、私は思います。
あるいはVTuberであれば、自らをコンテンツとしてではなく、一個のバーチャルな存在として認知し、言葉を交わしてくれる「対等な一人の人間としてのファン」も、また等しくかけがえのない存在でありましょう。

そうした良い人間関係を持つことでこそ、「バーチャルな存在」は「バーチャルな存在」として長く在り続けられるのではないかな、と私は思います。
元気に自らの活動に邁進している時も、辛く何の活動もできないでいる時でも、等しく、ただ在るがままに在ることができるのではないでしょうか。

現実世界でのあなたが、きっとそうであるように。



◆さいごに

さて、今回は今までと少し切り口を変えて、現実的な視点から「バーチャルな存在」であるためのコスト、大変さというものを考えてみました。

冒頭での問題提起となった「バーチャルな体」を生み出すコストについては、実はバーチャルな存在にとってそれは必須ではなく、「現実世界の自分とは別の自分」になろうとし、表現しようとする意思を持って活動すれば、たとえ一個のTwitterアカウントであろうと「バーチャルな存在」たり得る。
ひいては、その活動を通して「ありたい自分の姿」での自己実現に至ることは可能である、というのが私の結論です。立ち絵やLive2D、3Dモデルといったバーチャルな体は、ただその表現の幅を広げるための拡張デバイスにすぎず、本質ではありません。

一方で、そうしたバーチャルな存在は、流行の変化の早いSNSをフィールドとするがために、忘却という大敵と戦い続け、活動のモチベーションというコストを払い続けなければならない…と、そう思われがちです
しかし真に重要なのは、そうした上下するモチベーションと活動の頻度にかかわらず、ちゃんと自分のことを一個のバーチャルな存在として見て、気にかけてくれる相手、つまりは友達や、対等な一個の人間として自分を見ていてくれるファンではないかな、と。

そうした豊かな関係性を、バーチャルな存在として得ることができた時、私たちは初めて「活動をしないと忘れられてしまう」という呪縛から解き放たれて、一個のバーチャルな存在としていつまでも、在るがままに在ることができるのではないでしょうか。

その上で、あなたが自らの望んだ「ありたい姿」を…自分の「意思」を忘れることなく、ゆっくりと、時に休んででも歩き続けていけば、いつかきっと真に自分の望む姿に至ることができるでしょう。

あなたが、自分の望む姿を描き、自分の意思を持てますように。
あなたが、その意志を表現するのに足る姿を得られますように。
あなたが、バーチャル世界でそれを支える良い関係に恵まれますように

そんな願いを胸に、今日は筆を置こうと思います。

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この記事は
”バーチャルを通して自分らしい生き方を見つけ出す”
Vi-Crossマガジンに収録されています。

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