「生きていく」ことの大変さとVR世界という止まり木:今日も一日生き延びてエラい!
先日の全3回に渡った連載「全てがVになる」。
今回の記事は、いうなればそのあとがき、あるいは付録のような文章です。
VTuberが「自分のなりたい姿としてふるまえる」仮想人格となりうると指摘した上で、それが当たり前に受け入れられる土壌となるVR技術の社会への浸透と、価値観によるコミュニティの分散化という未来図を提示しました。
そして後編にて「一つの矛盾しない存在であらねばならない」という現実世界の息苦しさを指摘し、仮想人格としてのVTuberがその救いとなりうるのではないか…と結びました。
VR世界は私たちに自由や救いをくれるのではないか…と。
これには、VTuber/VR界隈に限らず様々な方からの反応を頂くことができたと思います。そのことに、私は手ごたえと期待を感じています。
というのも、一見してテック的な面ばかり見られがちなVR世界ではありますが、その主役はやはり「人」であり、どこまでも実社会を映す鏡でしかありません。
なればこそ、VTuber/VRクラスタを超えて、こうした考えが大多数の「普通の」人たちに何かを考えさせることができるかが、これから一層重要になってくるでしょうから。
さて、記事に対する皆様の反応は肯定的な物から否定的なものまでさまざまでしたが、それはある意味で予想通りでした。
というのも「全てがVになる」は、その端的で断定的なタイトルからも察せられるように、そもそも私のやや理想論的で、数十年先までを見据えた遠大なビジョンを描いた一つの「夢」の表現であったからです。
現実的な視座を強く持つ人からは、厳しい意見をもらうのは当然なのです。
…さて、今回なぜこのような文章を唐突に書いたかというと、私がnoteを定期購読している白饅頭氏の先日の記事に、この「全V」での思索と少し重なる部分を感じ、刺激を受けたことや気付きを皆さんに共有したかったからです。
あらかじめ断っておくと、白饅頭氏のnoteは多分に現実的かつ分析的であり、私の記事とはやや方向性を異にするものです。
今回取り上げる記事の内容を端的に説明するなら、
私たちは社会の中で生活するために、「ありのままの自分」ではなくある程度「本音」と「建前」を使い分けるように自分を曲げて生きている。それを生きづらさの象徴に言うのは誤りだ。
結局のところ、私たちは一生「俳優」として社会的な自分を演じなければ、皆からつまはじきにされてしまうだろう。
けれども、そうして「俳優」として生きる中ででも互いの心の一端に触れ、互いを思いやる交流ができるからこそ、人はなんとか生きていけるのではないだろうか(抄訳:思惟かね)
という白饅頭氏の「光属性」に溢れた記事となっています。
…この「私たちは常に”俳優”であらねばならない」というのは、「全てがVになる」で私が言及した、現実社会が「自己矛盾のない、一貫した、普通の人間であること」ことをあなたに求める「一貫性の圧力」より、さらに根本的なお話です。
社会生活を送る上で、人は互いに慎みを持たねば、一緒に暮らすことすらできない。考えてみれば当たり前の話です。所かまわず「わがまま」を一方的に言い立てる人は、社会的に生きていくことはできません。
VR世界でも、結局これは同じです。
人間関係により成り立つ世界である以上、私たちはVR世界でもお互いに配慮し、社会性を持たないといけません。
決してVRは「なんでもあり」の世界ではないのです。
わざわざこんな蛇足を言語化するのは、ひとえに白饅頭氏のいう「理想論を言い立てて人々を不幸にする」人間に私はなりたくないからです。
VR世界での自由な表現と交流が変えるのは、現実の「一貫性の圧力」から解き放たれることによる多様で自由な在り方、ふるまいです。
それは「何もかもを許される」のとイコールではなく、お互いに社会的な配慮を…あるいは「思いやり」を持つことは、現実と同じく必要なのだと、改めて強く言いましょう。
人に夢を見せようとする者として、それが不幸な結末を招かないために。
事実、私はバーチャルな世界の「もう一人の自分」として、仮想的な一人の個人として振舞うなら、そこには必ず個人としての責任も背負わなければならないと思っています。
それは匿名性ゆえの無責任とは対極にあります。「もう一人の自分」も形ある一人の人間に他ならないと、あなたそう信じる限り、それはまさに自分の責任なのです。現実と同じく信頼も人間関係も裏切りやその報いも、「もう一人の自分」として背負うものに他なりません。
だからこそ「仮想空間でのお遊び」にとどまらない、責任ある一個人として「新たな自分」となって、あなたは本当の意味で望む姿に変わっていくことができるのです。
私たちは人間である以上、VR世界であろうと、やはりこの社会という舞台から降りることはできないのです。
それでももし、人が本当にそうしたあらゆる社会的制約から自由になりたいと望むなら、それは「小論:分散化する未来の社会と個人の「しあわせ」のかたち」で垣間見たような、テクノロジーに支えられて全ての個人が離れて暮らす、究極の分散化社会という形を取らざるを得ないでしょう。
こうして考えると、それもまた、一つの「救い」の可能性なのだなということに改めて気づかされます。
しかし、ではVR世界での「自由」は、こうした社会の世知辛さに対して無力なのか?
そうではない、と私は思います。
例えば皆さんは、VRChatというVR-SNS内でふららんさん(@furarann_vr37)が主催している「#今日も一日生き延びてえらい」集会をご存知ですか?
どういう趣旨の集会かは、もうタイトルと下記のツイートだけでお察し頂けるでしょう。
一見すると「生きるなんて、そんな当たり前の事を何をとりたてて…」と思われるかもしれません。
けれども、私たちは事実、そうした「生きるつらさ」に耐えながら日々を生きています。ここまでお話してきた社会的なふるまいや慎みというのは、そうした「生きるつらさ」の紛れもない一部でしょう。
「生きていく」ためには、たとえ仕事が面倒だろうと真面目にそれに向かい合っていかなければならないし、苦手な人がいても「ヤダ」とは言わずに円滑に付き合っていかなければいけません。
「今日も一日生き延びること」は、事実として皆が当たり前のようにやっているけれど、とても大変なことなのです。
そうした「当たり前」という固定観念から離れ、皆でそのことを祝うことは、実はとても素晴らしいことではないでしょうか?
もちろん、VR空間でなくても同じことはできるでしょう。「今日もお疲れさま!」と同僚とビールジョッキをぶつけるのも、いうなればそうしたコミュニケーションの一つといえるかもしれません。
それでもその場で「生きててえらい」とお互いに言い合うのは、やはり少し奇妙なように思えます。
しかし一方で不思議なことに、私だけでしょうか、正直、このVR世界での「#今日も一日生き延びてえらい」を、あまりおかしなものだとは思えないのです。
それは、察するにVR空間が現実の「圧力」…あるいは「頑張って生きるのなんて当たり前」という常識から、私たちを解き放ってくれているからではないのかな、と思います。
VRは人を変えてはくれません。
ただVRは、人を自由にするのです。
容姿や性別などの物理的な制限から、あるいは社会的な圧力や常識から。
「生きる」という万人にとっての辛さからはもちろん、人それぞれの悩みやコンプレックス。普段なら「当たり前」と突き放される現実の常識から離れ、そうした苦悩を望む姿で、望む人たちと、吐露できる世界がVRには生まれうると思います。「#今日も一日生き延びてえらい」集会のように。
それは仮初の開放かもしれません。
けれどもそうしたひと時、止まり木ともいえる心安らぐ時間や、心と心のふれあいがあるからこそ、私たちは「明日も頑張ろう」という気持ちになれるのだろうと思います。
「全てがVになる」かは、正直なところ、五分の未確定な未来でしょう。
けれどもVRのそうした自由さ、あるいは「やさしさ」が、止まり木となって憩いの場となっていくことは、それよりもいっそう現実的で、そして誰にとっても幸せな未来の姿なのではないかな、と、そう思うのです。
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