わかろうとするということ
以前から思っていたけど、質問に対して「知らない、知りません」という答えに何か苛立ちを感じることに気づいた。
とは言っても自分も「〇〇知ってる?」という質問には知らないと答えることはある。
単純にyes/noで答えられるものでなくて、自分の意見や考えを示すことができそうな、できる余地がある質問に対しての「知りません」が問題なのかもな、となんとなく思う。〇〇についてどう思う?とかそういうの。
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例えば、上の画像の知らないだと、(本当は知っているけど)自分は無関係だという意思表示をしたいことがわかる。この情報知ってる?という意味合いの質問に対して知ってる/知らないと答えているだけで、別に回答者にどういう思惑があろうがそこまで不自然さはない。
どう思う系の質問に対しての「知りません」は、自分にとっては思考放棄にあたるのでそれはないだろと思う。「わからない」は全然問題ない。
仮にその直前まで知らなかったとしても、その質問から接点が生まれ、何かしらの情報を得るわけで、そこから進展して思考することはできると思う。それに対しての「わからない」はたとえ短くても思考というプロセスを一旦経ているので、自分にとって不自然さはない。
特に「知りません」即答は、自分は思考放棄した人間ですといっているのと同じだと思う。是非はともかくとして。状況によってはそれが正しい回答かもしれない。あなたとは積極的に関わりたくありません。話すことはありませんという意味合いでの「知りません」とか。
常に思考していることが絶対的に優位だというつもりはないけど、それが自然なことだと感じている人間にとっての違和感で苛立ちが生じているのだとなんとなく考えている。
“Why, Japanese People!?”
”I don’t know. “