2024/10/17

新宿西口でスープカレーのお店があったので入ったら、あのオシャレカフェとかによくあるソファ席で、かつ机が膝の高さくらいまでしかなかったので常に前かがみの難儀な姿勢でスープカレーを食べることになった。オシャレさと実用性のバランスが取れていないということだ。オシャレなら別に飯が食べづらくてもいいだろ、と問題に目をつぶれる人間はどれくらいいるのだろうか。客が求めているのは何よりも写真を撮った時の映えである、と経営者側が思うことは俺たち客を舐めているのか、もしくはそうせざるを得ないほど映えで店を選ぶ蒙昧さを多くの客たちが得てしまったのか。関係ないがその店は至る所がオシャレすぎて俺は店の裏口を入口だと思い込み、裏口から店に入り店員に恐怖の目で見られた。裏口からいきなり入ってきた小太りで髭面の男が何も言わずに突っ立ているのでそれは確かに化け物なのだろうと思う。客がバカなのかもしれない。

俺はよく「無印良品みたいな男」という表現を使う。「無印良品みたいな男」とは無印良品を好み、眼鏡をかけていて淡い色でゆったりとした服を好み、意味もなく花を買ったり、玄関先にミモザを飾ったり、キャンプに興味があり、URの団地に住みたいと言っていて、好きな食べ物はタコスやバインミーだったりする男の事だ。こういった男はゲイの中にもいて、何故だか知らないが2丁目の飲み屋やイベントでブイブイいわしている極彩色の男は最終的にこの無印良品みたいな男と付き合うことが多いように思う。

無印良品は俺が言うまでもなくオシャレさと実用性のバランスが取れている。実用性の方に若干傾いているとは思うが、しかし無印良品には無印良品にしかないシンプルな美しさがある。ふと考えるのが無印良品みたいな男はSEXをどう捉えているのだろうか、ということである。
恐らく無印良品がAVを作るなら非常にプラトニックで子どもをつくることを目的とした生殖活動をカメラに映すはずだという確信が俺にはある。無印良品のAVなどという存在しないものを立脚点として話すことは最初から議論が成り立っていないことを意味するが、しかしこのまま続けさせてもらう。
そうした場合、俺たちゲイの無印良品みたいな男はSEXとどう向き合うのだ?という疑問が俺の中に昔からある。俺たちのSEXは生殖を目的としない、いわゆるノン・リプロダクティブ・セックスなわけだが、そういった無印良品のイメージからかけ離れた動物的な本能の部分を無印良品みたいな男はどう処理するのだろうか。
でもきっと無印良品みたいな男もゲイSEXを楽しむのだろうな、と思う。動物的本能と距離を置くことはせず、当事者としてSEXを乗りこなす。そして同時に無印良品みたいな生活を送る。この二つは当人の内面で融合をしているのか分離しているのかは分からないが、それらは共存したまま表面的な矛盾となって他者の中に残る。よく「欲の薄そうな男(無印良品みたいな男)のSEXが激しいとアガる」と言われるが、結局のところそういった一見矛盾ととれるものがギャップとなり人間性となり人の魅力となるのだろう。極彩色の男が無印良品みたいな男に惹かれるのも当然と言える。

プーチン大統領は戦争を手段として容認している悪人だが彼は美しい柴犬を飼っている。犬を美しいと思う繊細さと殺人を認める残忍さは彼の中でどのように融合、または別離しているのだろうか。
『HUNTER×HUNTER』のヨークシンシティ編、ゴンとノブナガが腕相撲をするシーンで、ゴンの「仲間のために泣けるんだね。血も涙もない連中だと思っていた。だったらなんでその気持ちを少し…ほんの少しでいいからお前らが殺した人たちに、何で分けてやれなかったんだ!!!」というセリフがある。俺はゴンと同じことを思っているが、けどきっとその答えは簡単に「人間だから」という答えで片付いてしまうのだろう。そしてそういったことはこの世にたくさんあるからこその人間の難しさなのだろう。ソファ席でありながら膝の高さの机を容認した悪のスープカレー屋経営者は秋の涼しい風を体に纏い嬉しくなっているはずだ。


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