2024/11/08
恋愛相談をされることがたまにある。恋愛を解さない俺に恋愛相談などヘイラッシャにアーマーガアくらい相性が悪いが、しかし鉢巻ウェーブタックルを耐えられてはねやすめで粘られても急所を引けばワンチャンということもあり、俺への恋愛相談もそういったワンチャン良い事を言うかも、という微かな期待のもとでしてくれているのかもしれないので俺もワンチャンにかけるか、と鉢巻を締めてかからねばならないことである。
「彼氏にポリアモリーを提案された。彼氏の強い希望もあって受け入れたが、それは『彼を失いたくがない為』の決断なのでポリアモリー自体に納得している訳ではない」という恋愛相談をされた(高らかに他人の悩みをインターネットに書いているが日記に書くことはお願いして許可をもらっている)。
これを読んだ人はこの相談自体にどう思っただろうか。俺はまず彼氏の強制力というか強引さに怒りはしないが、驚きを覚えた。恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム、と歌ったのはミスチルの桜井和寿であるが、しかし実際の恋愛とは強き者が我を通すために覇を唱えるだけのパワーゲームとなっているのかもしれないと頭を抱えてしまった。
他者への優しさとは自分の神経を切り出しながら相手に与えるものであるとするならば、常に他者に優しい人間というのは身を削り慣れていて、搾取されている人間と捉えることも出来る。そしてこのポリアモリーの提案はまさしく優しさの搾取の構図になっているのではないだろうか。付き合うという関係において、理想の関係とはなんなのだろうかとごまんと答えがある問いについて考えねばならない。人間とは迷惑をかけ、そして迷惑をかけられながら生きていくことになる。しかし別れを恐れ相手に対して極端に慮った時(慮るを口に出して言うと確実に馬の部分がある)、双方向にあるべき迷惑の掛け合い(優しさの掛け合い)が片方だけに寄りかかり、それが搾取の形となってしまうのかもしれない。
次はこの相談のポリアモリーというところに焦点を当てて考えてみる。複数人で恋愛関係を築くということの是非は置いておくとして、そもそもなぜ恋愛とは一対一なのか。今回は社会的背景を無視して考えますが、人間の気持ちとして人を「好き」になることと「大事にしたい」ことは似てるようで違うから、人は一人の人間のみを愛すような精神構造になっているのかもしれない。「好き」をLike、「大事にしたい」をLoveと言い換えてもいいが、本来、このLikeとLoveの間には大きな溝があって俺たちゲイにおける恋人と友人の違いはこの溝をもとにして関係性が決められることが多い。正直言うと、俺は友情を貴びすぎてこの溝がほとんどないのだが、それは精神の幼さ故に来ているものだと思う。しかし俺とは違う形でこの溝の距離が短い人がポリアモリーという選択肢を取れるのかなと思う。Loveを一人にする必要がない、端からそう考えていればポリアモリーという選択肢は魅力的だしその人に即している。あとは現実の人間関係の中でのすり合わせだが、そこはもう話し合いの中で上手くやっていくとしか言えない。俺もこの相談相手には相手と話し合ってみて、自分がすり減るようなストレスを感じるなら彼氏を殺すしかないと答えた。体が大きい彼氏なので毒で殺せと伝えた。森で、毒を作れ。
人は何故人と一緒にいたいと思うのか。「一人じゃ寂しいから」と簡単に答えが出てくるが、しかし「寂しいから」という動機は、人間の最深部に見えて実はそうではないのではないかと感じている。一人じゃ寂しいという答えは、白状にも似た心の奥底を思わせる言葉だがまだ奥になにかある。人は寂しいと自覚することすら何かを隠す為の仮面であって、その先こそが人の本当の深淵。人間の底知れない奥深さとは孤独を嫌う理由から放たれる普段は絶対に触れない、暗く、腐臭すらするほどの醜いなにかからにおってきているのだと考えている。